コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

暗さとやっていく

4、5年前に読んで以来、ずっと心の片隅に残っているので、紹介します。


コラム「ダンスセラピーと私(8)」セラピーとしてのButohダンス・メソド
北海道工業大学教養部 葛西俊治(暗黒舞踏集団「偶成天」主宰 森田一踏)
http://www.ne.jp/asahi/butoh/itto/kasait/jadta1.htm

あるとき、ダンスセラピーの大御所の一人が、いかにもおぞましげに「…舞踏は暗い…嫌だ…」という言葉を私に向けたことがひどく印象に残っている。「それは好みの問題」であると同時に、「かすかな光は闇の中でこそ見いだせる…」という私の思いは、口から出ることはなかった。
私の舞踏集団が公演した際、あるとき観客の一人が激しく泣き出し始めたことがあった。小さな会場だったこともあるが、その泣き方のあまりの激しさに周りの観客も迷惑だったと思うのだが、それはそれとして踊りは進み、公演は終わった。その後しばらくしてから、そのホールの担当者の人から、その泣き出した人は担当者の友人で、たまたま病院から遊びに来てあの公演の場に出くわしたこと…そして、「あの踊り…あれは私の世界だ…」という共感だったのか悲哀だったのか安堵だったのか…号泣してしまった…という事情を知らせてくれた。
そういうことは、実は、私たちの公演の時に再三起こってきたことだった。ほぼ漆黒の舞台上で半裸で白塗りの舞踏手が踊る踊りは、たぶん人間賛歌ではなく、そのように人として生まれ落ち生きていることの悲しみや呪詛だっり、石や草木の諦観と安らぎだったり祈りだったりしていたはずなのだ。しかし、それは私自身の個人的な理由によることであり、そのことを舞台という場において、人間ならぬものたちへとささげ・突きつけること…それが私が踊る動機であるから、私たちの踊りを見てなぜか涙した人には内心「ごめん…」と謝ると同時に、そうやって見届けてもらえたことに密かに安堵して、私自身、ひっそりと涙を流すことになる…。

今年の初め、Butohダンス・メソドに関する論文[3]をしたためることが出来た。その中で、Butohダンスを区分して、公演などのように観客の前で踊るButohダンスをレベル2、自らのためだけに踊るButohをレベル1、そして、心身の探索を目的として動き踊るButohをレベル0と呼んでおいたのだが、そのうちButohが「暗い」のは、このうちの主にレベル2と1に特徴的であって、心身の探索というレベル0においては、ただちに安らぎと輝きが得られるところもある。野口体操的に身体が緩み、あるいは身体がブラ上がると同時に腰と脚が地面にグランディング(grounding)すること、あるいは、深い呼吸へと誘われたとき、それはまさに「心身」の技法として心身両面へと作用することとなる。あるときはButohレベル1へのきっかけとなるような内面の暗がりが開かれたりすることもあるにしても、心身の深さ・豊かさを静かにかみしめたり、あるいは歓喜のあまり跳び上がったりすることが起きる。あるいは他者との肌と肉との触れ合い、抱き合い、あるいは軽い叩き合いの中で人の暖かさとつながりを感じてくることは、端的に明るさを導いてくるものである。そして、そういう心身の豊かさ・深さに関するButohレベル0の体験を積み重ねた後に、ふと、その人なりのButoh Danceが立ち現れてくる…。そういう流れがあることを、自分なりに区分してみたかったのだ。

…凄まじい孤絶の体験は、人との触れ合いによって癒されることがない…。これは、私自身が長年かかえてきた事実であり、どれほど深く人と関わってもその絶望はまるで次元の違うところに在る…と私は感じてきている。もちろん、人は互いに癒されうる。しかし、「ある次元においては」決して癒されることがないのだ…という事実(まだ仮説なのかもしれないが、体験上…)を踏まえてみようとするとき、このような思いが人と関わるときのある種の「誠実さ」を用意してくれることも知った。
人と関わりつつ心身が伸びやかになる時間は楽しい。まるで露天風呂の中でくつろぐように心地よい。しかし、その最中にも、あるいはその直後にも起きる不思議な深い溝は何なのか…。心の中の0.1%にも満たない小さな小さな溝に引き込まれてしまう私は、私自身の全く個人的なあり方として、Butohということ以外に居場所を見つけることが出来なかった。


大学時代の友人が舞踏をやっていたために、暗黒舞踏の存在を知った。でも、私としてはチラシを見るだけでグロくてエグくて気持ち悪いので、全然見たいとは思わなかった。今も思わない。(同じ舞踏出身でも「山海塾」は、真っ白な世界の緊迫感が本物と感じられるのでわりあい好きかもしれない。)


ただ、長年「自分は暗い」と思ってきたけれど、そんな自分の世界よりもっと暗い世界があり、もっと暗い世界にいる人たちがいると知ったことは、とても大きかったのだと思う。
自分が真っ暗だと感じている黒さは、彼らにとっては「明るいチャコールグレー」程度のものに過ぎないのかもしれない。


彼のような人の存在を思うとき、彼と私は現実の世界ではまったくつながることはないが(多分実際にはなんとなくウマが合わないのではと思う)、何か仲間がいるような感じがして、救いというほどの大きなものではないが、何か緑(みどり)を感じる。


世の中のひっきりなしに流布するポルノグラフィとか、デスメタルとか何かわけわからんものを撤廃しようとやっきになっている大人たちは多いけれど、そのようなひどくアングラなものは存在する価値がある。人間には、闘争本能があり、死の本能があり(名前はなんでもいいけどとにかく人の中に棲むひどく攻撃的な「野獣くん」だよ)。そのようなどうにもならない本能的なものは、酷く暗いものの存在によって助けられることがあるような気がする。


野獣くんを飼っている人たちにはわかると思うけれど、野獣くんは好きで飼ってるわけじゃないのだ。気がついたら棲んでいたのである。
私にできることは、野獣くんとできるだけうまく共存していくことだ。
私には、彼が出ていこうが行くまいが、その選択肢はないみたいなのである。
追い払うことに時間を費やすより、上手いつきあい方を見つけていったほうが、得策だろう。
追い払おうとすると、常に彼のことを意識していなきゃならないけれど、
共存するんだったら、彼を片隅に置いておいて、大部分の私は好きなことをしようと思える。


彼はだいぶ大人しくなった。多分もういなくなってしまったかもしれない。
自分は空っぽだと感じる。自分の中には何もない。去年の、創造エネルギーが充満していた、でも焦りが一杯だった私はもういない。
今は落ち着いて。座っているだけで十分だ。はて。