コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

日本語らしくないけれど

「(英語を話すとき、日本語を話すとき、それぞれ)話す言語によって自分の話したいことにリミッターがかかっている」

バイリンガルジョーイノウエ氏が話していた。

 

自分の話す多言語を全部話せれば自分の話したいことが100%表現できるけど、

実際は日本語を話すときに英語的な表現をすると変になる

(ので、そういったことはやらない。)

 

とのことだった。

 

10代、20代の頃は、日本語の優しくて曖昧な表現が苦痛で、

アメリカに移住したかった。

そういった自分のマルチリンガルな感覚(またはアイデンティティ)を代弁してくれた気がして、

久しぶりに涙腺が緩んだ。

 

実際は、その言語らしさは超えられる。

自分なりのありったけの表現で、やりたいことをやるために話せばいい。

 

30代になり気づいたのは、

日本語らしくない強いイントネーションで、大きい身振りで、

話す人びとも日本には結構いる。

日本語らしくないけど、それはそれでいい。

変だし、その場から浮いているけど、それでいい。

その人はその人なりの表現で、行動し、変化を起こしていけばいい。

 

逆に世界を変えるためなら、如何ようにも言語、態度、行動を変えていくのが、

政治家だと思う。

だから私は政治家にインスピレーションを受け続ける。

 

クラシックバレエは古典芸能だ。女役・男役が明確に分けられている。

私はそれに満足できない。

だからコンテンポラリーダンスをやっていたわけ。

キックボクシングをやってきたわけ。

 

どうしても、うまく話せない。

口下手だ。抑制的な性格だ。というところに戻ってきてしまう。

もっと自由に世界を創っていきたい。