コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

アメリカへ

例えばアメリカは自由の国であるっていう概念がPR的に世界中に流れている訳じゃないですか、自由な国家、陽気な国家と。
でもそれはただのPRというかプロパガンダの部分が大きかったりするのを目の当たりにする感じがあったんで、結局(日本とは)そんなに大差無いって感じ。
確かにすごく自分が変わったし、色んなものを見たし、色んな経験も出来たんだけど、果たしてそれが何をもたらしたかって言うと、そこまで自分が求めていた素晴らしいもの、理想郷のようなものではないということですよね。でも確実に日本人の中には、西洋が理想郷であるというような考え方が根本にありますよね。
紀里谷和明(写真家)


かつては「アメリカは自由の国である」
という理念に惹かれていた部分は大きかった。
大っぴらな自己表現が許されるのは、
アメリカだけだと思っていた。


でも今は、
自由な自己表現が許されるのは、
自分にそれを許した人であると思う。
それがアーティスト、または改革者であるということだ。
どこの国にも保守的な人はいる。
世界中、保守的な土地柄がほとんどだろう。
人は、新しいもの、理解できないものを厭うものだ。


(コミュニティのルールに従うことは必要だ。
「郷に入れば郷に従え」
昔は、そして現代でも紛争のある国では、
怪しい動きをする者は、殺されて当然なのだ。
けれど、それを超えて、
あるいはそれ以外のことで、自由でありたい。)


今は純粋に、アメリカの友人たちが好きだし、
アメリカの自然に魅かれるかな。


アメリカに行くお金を貯めるなら、
日本で1〜3年ぐらい貧乏しなければならない。
どうやって節約生活するかな。


なんでそこまでしてアメリカに行きたいかな。
こう言ったら語弊はあるが、『アメリカ病』だと思う。
全然ダンス公演やコンサートに行く気がしない。
自分はおかしい。

 
芸術文化は無くていいから、
服と化粧品だけは買いたい。 
 
 
 
 
 
 
先週1ヶ月ぶりに、ダンスレッスンに行った。
1ヶ月全くダンススタジオに行く気が起きなかった。
こんなことは2年ぶりぐらい?
ダンスはやはり私の生活の一部だ。
無いと変。


通訳学校ISSの公開レッスン、行くまでは
嫌で嫌でしかたがなかった。
何回も、キャンセルしようと思った。
でも、行ったらとても面白かった。


嫌でもやってみると、
予想外に面白いことが待っている。


なので、先週末のダンスレッスンも、
全然行く気がしないけれど、
「嫌なことでも人生やらなきゃいけないことはある」
精神で行ってみた。
踊ったらやはり、いつもの私だった。
踊って、体がくねくねしていると、
人生は楽しい。
駅からだって、くねくねしながら帰っちゃう。
そうすると、人生は見違えるものになる。


もうリセットしなくてもよい時期になったらしい。
6〜3年前は、嫌なことがあるといちいちクリアして、
±0にしていた。
それほど、自分の中に負の堆積物があった。
常に−2だったので、
がんばって、自分を縛る負のプログラムを振り切って、
+2〜3の行動をして、0に戻さなきゃいけなかった。
いつも、ゼロからのスタート。


今は、嫌でもとにかく動き続ける時期かもしれない。
それは、0からのスタートではなく、
常に+1からのスタートで。
落ち込んでいても、神や世界への信頼感、
自分への基本的な信頼感は消えない。
「生きていく」ことについて腹が据わった。
+2に行くことを狙う。