コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

アクラム・カーン、シディ・ラルビ・シェルカウイ『ゼロ度』

アクラム・カーンシディ・ラルビ・シェルカウイ
『ゼロ度 zero degrees』 (movie)


2007年
1月12日(金)19:30開演
  13日(土)16:00開演
  14日(日)16:00開演
彩の国さいたま芸術劇場 大ホール


1月13日(土)公演。


新鮮でとても面白かった。
振付の語彙が大変バラエティに富んでいた。
(日本や西洋のそれとは異なる感じ。)
構成も次々にくるくると展開し、とても面白い。
前半のテンションを後半は維持できず、
だがそれも振付者の意図ならば良い。


拍手の数はもちろんギエムと比べると半分くらいであろうが、
ブラボーの声しきり。前席の方はスタンディング。
3回カーテンコール(ダンス公演としては少ない方)。
彩の国さいたま芸術劇場にしては外国人客が多い。





以下、覚え書き。




舞台美術は簡素。素の床に白いマネキン二体のみ。


振付。ほとんど二人の密接なやりとりで構成される。
また、舞台の隅に一体ずつ置かれた白いマネキンとも
やりとりする様子が笑いを誘っていた。
様々なタイプの殺陣が多かった。受身の型を使ったり。
私が詳しくないだけなのか知らんが、
見たことのないかたちが多い。
妙味のかけ合い。





ときどき体を休めるためにか、観衆に向かい二人重なるように座り、
声を合わせて長台詞を観衆に語りかける。
内容は、東洋を旅したとき、西洋人として何を感じたか。
『インドの国境で警察にパスポートを奪われてしまった。
パスポート、
なくなって初めてそこに自分の全てが書かれていたと気づいた。
パスポートがない。
自分を証明するものが何もない。
自分の名前、職業、国籍、誰も知らない。
自分のアイデンティティは何か。
無意味。ここ(東洋)では西洋で背負っている全てが無意味なのだ。
無意味であることに意味を感じた。』


『列車で男が死んでしまった。妻の女がかなきり声を上げる。
誰か彼を列車の外に運ばないか。
俺が……。
いとこが俺の体をつかんで離さない。
何でだ。助けなきゃ。
ついに列車が走り去る直前、駅のホームに死体は放り出され、
ドアは閉まり、列車は出発する。
全て終わった後、いとこは語る。
 死体に触れてはいけない。警察に言われるだろう。
 「何をした。何故こんなに死体のすぐ近くにいるんだ。」
 必ず問われる、そしてムショにつれていかれる。
 僕は早くホテルに帰りたいんだ。』






アクラム・カーンの天性のダンサーぶりに圧倒される。
類い稀なるリズム感。
こんなに切れの良いダンサーを見たことがあったか。
恐らく同じムーブメントを誰が踊っても
彼のようには踊れない。
うまく言えないが、
彼だからこそ踊れる『彼自身の』ムーブメントの連続。
シェルカウイと比べると、腰の安定度が際立つ。
全く違う。シェルカウイはむしろやや浮いている。


シディ・ラルビ・シェルカウイ(モロッコ系ベルギー人)は
中国雑技団並みの体の柔らかさを披露してみせる。
バック転、様々な角度の安定した逆立ち、ヒップホップ。
しなやかな白人の筋肉と体つき。
床に頭をずっとつけたままいろんな角度で踊ってみせる。
このバリエーションは初めて見た。面白い。素晴らしい。
ブレイキン’とはちょっと異なる動きだ。


カーン(バングラデシュ系英国人)は
ずっとインドの古典舞踊カタックを踊り続けているせいなのか。
日舞や舞踏に見られる東洋の腰。下に下に。
足が床と友達、というかそれ以上。床に足が吸いついている。
どんな動きをしても全くブレない体。
あまりにセクシーな筋肉に魅了され、
舞台が終わったらどうやって彼に話しかけようかと
不埒な作戦を練る舞台後半のmeowow。
ていうか、本当に友達になりたいので紹介して下さい。







後半はややテンション下がり、少々眠くなる場面も。
二人だからずっと動き続けてもいられずそれも仕方ないか。


舞台奥に、インド民謡調音楽の奏者ら3人とシンガーが
黒の薄幕に透けて見える。
いい音楽。
最後は舞台に誰もいなくなり、音楽だけを聴かせて幕。


最後の方の構成は何がしたいのかよくわからなかったが、
それもまあいいかと思わせる余韻。


日本人や西洋人には新鮮な舞台だろう。
中東の人に新鮮に映るのかは不明。


新しいものが生まれ出ずる予感。胎動。


カーンとシェルカウイは、
時代を超えた魂の兄弟であるかの印象を受けた。








B席3000円だったので。絶対オススメ。友人らに勧めます。