コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

あたりまえの好きと不思議な嫌い

好きなことは、「好き」だから、何を見ても好き。
ねこが、ぶちねこでも、目やにがついてても、ブスでゴジラ、じゃなかったニャジラでも。
ほうほう堂がちょっとぐらい、舞台が変わったせいか、いつもの良さが感じられなくとも。


嫌いなことは、なんで嫌いかわからない、単に生理的に気持ち悪かったりして。
でも、なんで嫌いか考える。それで自分がわかる。
自分について知ることが徹底的におもしろい。


未知なるものってすごく惹かれる。謎が好き。
理解したいと思う。理解しようとしてあれやこれや考えるプロセスが好き。


ある程度、わかった、と感じたら、興味が失せる。次なる対象を求め…。
興奮する対象がないとダメ。自分の良さが出ない。自分の良さは集中力だから。(あと分析力かな。)
クリアするっていうか、人生はゲームじゃないだろうけど、征服欲があると思う。
世界征服って男の夢だよね、って私は男か。
とにかく、そういう欲があるのもアメリカ好きであることと関係しているかもしれない。(関係してないかもしれない。)*1


最近は、こうあからさまに征服欲でもなくなった。
一度飽きても、体に記憶されているから、それがないとさびしく感じたりして。
またあとで、そこに戻ってくる。昔は、「熱しやすく冷めやすい」だったけれど、
最近は、「熱しやすく冷めにくい」になった。




ここまで書いて、よく「好き」について考えてみた。ねこでも嫌いな猫がいたことを思い出した。
2匹目に飼った猫。私が1ヶ月アメリカホームステイに出かけている間に、母になついてしまったのだ。
私が近よっても、ニャンともミュンとも言わず、フ〜と威嚇して、私の手を引掻くだけであった。
あー、嫌いだ。ねこは好きだし、お近づきになりたいのに!
それでも、彼女が死んだ日には泣いた。私が拾ってきた猫。


好きなことを好きなことは、自分にとって自明に思える*2けれど、よく考えたら、いろいろ感じているのだった。
好きや嫌いや、嫉妬心や、恨めしい気持ちや、ムカついたり、惚れこんだり。ああ。





だんだん気持ちが上向いて、前向きになってきた。しだいに、ひきこもりっ子についてひどく気になっていたことも、過ぎてゆく。*3
今回じっくりと考えてみて、何か落とし前がついたような気持ち。
いろいろなことがわかった。というか、「わからない」ということが、いろいろと腑に落ちた。


私にできることは、やれることをすることだ。
できることを、すればいい。
できないことは、できない。無理は、続かないから。
私だけでなく、みなできないのだ……。


また、「ひきこもり」について、私は語れないということがわかった。
それは、私の体験ではないのだ。私は、ひきこもりの彼について、語ることはできない。
たとえ、いくら彼に対する愛情があっても。
私の表現。
テーマは変わりゆく。
 
 
 

*1:現在、アメリカは世界で非常に評判が悪い。もちろん私もアメリカの政治に関しては全然いいと思っていない。我が事のように何とかせなあかんと思う。しかしながら、どの国にも良い点・悪い点があると思う。私がアメリカを大好きなのは、たまたまアメリカで出会った人々がとてもフレンドリーで愛にあふれた人びとだったから、だ。

*2:もちろん、「好き」と違って、「愛する」ことは自明ではない。複雑だ。けれど、チョコレートやねこを「好き」なことは、私にとって一見自明なことに思われた。

*3:今となっては、なんで嫌いなことや自分の欠点についてぐちぐちと思考していたのか? であるよ。でも、必要な時間だった気がする。やっとドイツに行ったことを自分の世界地図の中でひとまず処理し終わった気がする。納得の行かないことについて納得の行くまで自分の頭と体で考えた自分を誇りに思う。(それにしても鬱持ちじゃなきゃこんなに考えないだろうなあ。) 最近このブログだらだらしてて変。