コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

恋愛の自由市場化


今は雑誌でもあからさまにモテるための服を特集する。
「モテ/非モテ」が時代を読み解くキーワードになっているほどだ。
変な、面白い風潮。





西研・藤野美奈子/共著『不美人論』を要約すると、

1980年代から日本は都市型社会・消費型社会になった。第三次産業の拡大。
→誰もが努力して能力を身につけさえすれば生まれに関係なく活躍できる社会になった。役割から抜け出し自由な選択ができる(少なくとも建前上は)。資本主義・自由市場。昔は一部の美人がしていた美醜評価ゲームに今は皆が参加するはめになった。貧富の差が少なくなり誰もがブランドものや化粧品を買える時代だから。
=美醜競争の激烈化。
昔の日本ではごく一握りが(たとえば庄屋の娘が)とても美人でもてはやされたかもしれないが、それ以外の多くの人にとってその美醜評価ゲームは関係ないものだった。農業など第一次・第二次産業に従事し、日々生活に苦労した。一般的に、そのままでは恋愛にならない多くの若者を近所のおせっかいなおばさんがくっつけた。

ということのようだ。




私は3年前のギャル系ファッション時代に、「どうすればいい人を見つけられるか」的なまあいわゆる恋愛指南本かな、を本屋で趣味のように立ち読みしていた。購入して真剣に読んでいたわけではなく、全部本屋で流し読み。すきま時間などに。(基本的に、そのような軽い実用本でなくても、ほとんどの本――文学やノンフィクションなど――は本屋で1〜2時間立ち読みして読了する。……していた。最近はウサギでなく牛のように読むことを心がける。)恋愛の実用本を無用に読み、脳味噌が市場経済的な考え方に侵されていたかもしれない。恋愛に対して功利的になっていたことに気づいた。





数年前、私はよく分析した。眠れない夜に暇つぶしにぼーっとノートに勘定を書く。数値と表。どの男性がどのような特質を持っており、彼らに共通するのは何か。また私の知り合いに、ある特定の性質を持つ男女(たとえば西洋占星術における風や水の要素)がどのくらいいるか。パーセンテージ。割り算。比率。私の恋愛嗜好の癖は何か、など。
こんなこと世の中の人は中高生のときにやっていたと思うのだけど。私は高校生のときは女子校のようなもので、ほとんど恋愛に興味はなかった。






小学校高学年のときに好きになった男の子は、外見は大手の芸能プロダクション(某劇団)に所属していたほどでカッコ可愛らしい顔立ちだったけれど、カッコイイから好きになったのではなかった(たぶん)。小学校2年から同じ通学班で通っており、しかも驚異的な縁で小2から中2までずっと同じクラスだった。いつも近くにいたから、なんとなく好意を寄せたのだと思う。彼のことは、小5から高校3年ぐらいまでずっと想っていた。
これが本当の初恋のようなもので(ホントの初恋は幼稚園のときだけど)、お互い口には出さねど両思いだった。授業中に、隣の机同士(席替えのたび友達に交渉したりズルしたりして彼の隣の席を獲得した)でよく遊んだ。私の作った小さなわら半紙のノートに、黙ったまま漫画を描きあい。小6のとき映画のロケの仕事で英国に行った彼は、私に英国製の銀のスプーンをプレゼントしてくれた。あろうことか両思いとは気づかなかったけれど。誰にでもおみやげとして銀のスプーンを配っているものだと思っていた! そんなこと、あるわけがない。10年後に気づいた(遅)。彼は、誰もが知る東宝の映画にも何本か出演し、役者としてテレビドラマや舞台で演じることに熱中していた。







昔は、近所に住んでいるから、同じ職場だから、といった『縁』で結婚していたかもしれない。
今は、「自由になった感じ」で、世界にいる、自分と知り合う(知り合った、これから知り合うであろう)一万人または百万人(?)の男女のなかから選べる気がする。ニューヨークやベルリンのビジネスパーソンの間では、スピードデイティングが流行っているという。
けれど、「選ぶ」という視点が市場経済的だ。おこがましい。人間は、商品ではない。


人間関係は、リモコンでテレビのチャンネルを変えるように完全にコントロールできるものでない。つきあう人を完全に選べるわけでない。現実の私が出会える人は、友人をとっても、限られる。毎日多くの新しい人に会うのに、実際に親しい交際をする友人は両手両足で数えられるほどだ。


出会いはchemistryで。神のはからいに感謝したい。*1

*1:不思議な化学反応