コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

熱情2


多分、留学には本気でなかったのだと思う。
自分の目の前にあることは、本気で取り組んできたから。
彼を助けることも。
目の前で起こったスリ事件を最小限に食い止めることも。


いつのまにか、本気を出せることがある。
どの場面に本気を出すか。知らないうちに本能が決めている。


自分が信じられることに対してはがんばることができる。
けれど、日本の大学資格など、信用できないことに関して、
がんばる気が起こらなかった。 
あと卒論と必修1科目と体育1科目だけだったのにな。
アホだね。 


でも、学士号を蹴ったことで、
自分の人生何があっても自分の好きに生きるという
腹が決まった。私にとって、決定的な瞬間だった。
全然ベストな選択だったとは思えないけれど、
良かったと思っておこう。


いつも、目の前のことを「とりあえず」やってきた。
入試も。部活も。
「とりあえず」、自分に嘘をつき。続けた。
あるとき、そんな「とりあえず」人生は終わりを告げる。
嘘をつき通すことをからだじゅうが嫌がった。


小5のとき、神による世界の始まりについて作文を書いた。
返ってきた担任のコメントは、
「あなたは本当にそんなことがあると思ってるんですか」
という非難めいたものだった。
私はこんな自分を出してはいけないのだと思った。
小学生にして、「悟った」のだ。
「現実的」に生きようと、決めた。
以来、大学3年で精神的に崩壊するまで、10年間、
必死に、はみ出さないように社会適応に努めてきた。


国学部留学に挫折し、かつてないほどのうつ状態に陥りつつ、
背水の陣で日本の大学に合格。
暗中模索の中、自分の考えていることが世間では
「哲学」と呼ばれているらしいと知った。
哲学を専攻し、キリスト教史を学び、倫理の諸問題を考えた。
小学生のときからの興味をついに勉強することになった。
世界の始まりや、存るということ、その意味を考えた。

 
自分は、語学系なのだろうか、哲学系なのだろうか、と考えたことがある。
私は何系だったのだろう?
母から与えられた環境は、国際的な多言語環境だった。
英語を始めとする多言語を話すことは、私にとって自然なことだった。
哲学的なことを考えるのもまた、母が幼時にくれたキリスト教の物語によって
培われた。


母は、しょっちゅう「出家」したいと言う。新新宗教・精神世界好きの、
カウンセラーマインドを持った、理想主義の元英語教師である。
大学入試で心理学科を落ち、教育学部に行って、英語教師になった人である。

 
語学も、哲学も、自分から始めたことではない。
誰にも教わらず、自分から始めたことは、ダンスである。
不思議。わたしはダンス系だったのか。


深いのは、両親譲りだ。
家庭での共通の話題が、人生哲学の開示であったりする。
家族3人大真面目で、あまり笑わなかったなあ。


会ったことのない私の父方の祖父は、
染色する作業の最中に、母屋で家事が出て焼死した。
家族3人で参加した家族療法で、父は初めて私たちに話した。
不意打ちだった。
頭をぶん殴られた気がした。
そんなこと、聞いてない。
不遇の死だったのだ。
そんな染色屋の祖父と、
二十代の半ば、何年間も本気で死ぬことを考えていた父と、
高専の頃、近所の鉄塔に登り飛び降りようとした弟と、
大学の頃、睡眠薬を大量服用して救急病院に担ぎこまれた私。
で、我が家は成り立っている。
暗いけど、いいのだと思った。
今は、幸せだから。
家族はよく笑い、夫婦仲は少し改善し、私の病気も治り、今日の天気は晴天だ。


家系ってあるのだね。
染色屋の祖父と、染色工芸家&和服デザイナーの叔母と、ウェブデザイナーの弟。
高校を出て以来、家を捨てたいとばかり思っていたけれど。
いったん受け入れてみたら、捨てたものでもない。
自分にもその血が受け継がれているのかなあと思うと。
彼らの恨みつらみも含めて、死者の意思を受け継ぎつつ、
私の意志を完遂していこうと、感じる。
たぶん、私の意志って、私だけの意志じゃないと思うから。
本能、魂の望むものって、ちいさな自分だけではわからない。
あとになって、わかるものなのだ。
無我夢中でやったことの、意味が。