コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

バレエやクラシックは基礎か


バレエやクラシックは基礎か
たまたま通りがかったら興味深かった哲学者のChanMさんのブログ。
枯れた老人のようであるところが似ておる。
似た者の意見はすぐに参考になる。
対称的な者の姿は、理解できないが、無意識に訴えかける。
たとえば、フォーサイスや金森穣さんは、意識的にはほぼスルーだが、夢に出てくる。
ピナ・バウシュは意識の上でも夢の中でも好きである。私の振付の一部は彼女に影響されている。
彼氏のことは、理解できず、夢にも出てこず、ただすごく気になり、大嫌いで、行きたくないのに引っ張られる感じで、もうつきあわなくていいです、と思ってるのに、またつきあってるところが、あー私の中の小さな子(無意識)は彼を深く愛して必要としているのだな、と思った。(二年前に)

 
 
 





別のChanMさんのブログの、保坂和志さんの文章を孫引きします。

起きた出来事を整理して解釈しないで、
起きた出来事だけをそのまま受けとめるようなクセを
作っておいたほうがいいとは思います。


大事なのは事実の方なんです。
目の前の事実を解釈するのではなく
受けとめるように訓練を積んでいくと、まとめの言葉なんか
事実とは別のことで、事実の一部分を
くっつけたりしているだけだとわかるんですね。


自分の心に起きたことなんて、うまく言えない。
そこには、事実の連鎖以上の説明は要らないんです。


引用ばかりで申し訳ない。ありがとうございます。
起きた出来事をそのまま受けとめるよう訓練していくと、
自分のかけた色メガネの色はだんだん薄くなっていくのか。
みんなメガネをかけているという事実ははずせないにしても。


ダンス公演も、(できるだけ)まっさらな心の状態で観るときと、
なやみごとがあるときに観るのと、
感想はかなり異なってくるだろう。


なやみごとはないけど、生理中だよ、というときに観ると、
感覚が鋭敏になっているので、五感の奥深くで体験する。
ダンサーのオーラも感じる。
私を揺さぶり、私に衝撃を与える出来事になる。*1


逆に、風邪気味だよ、というときの世界体験は、
私と世界のあいだを、一枚のライトグレーの極薄膜で隔てられている。


風邪気味です。

*1:ほうほう堂と、大橋可也など。逆に何の懸念事項もないのに、衝撃を受けたのはニブロール。生理中でないときにほうほう堂と大橋可也を観ていたらどうだったのか。想像がつかない。