コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

はっきり言う文化とあいまいな文化(を超えるもの)

河合隼雄さんによると、ドイツ語はなるべくIchが文頭に来ないように書く場合が多い。イタリア語はよく主語を抜かしてものを言う、という。
そうなんだ、日本語と似てるね。
「Iをパンと打ち出すカルチャーの方が、世界では珍しいと思うんですが、いまはそれが主流になっている。」


確かに英語は、文法的には「私、私」とうるさい。
そうであるけれども、でも、表面的な記法がいつもその人の内面を反映しているとは限らない。
私の友達になるアメリカ人が皆、日本に興味がある、日本的なものを持っているから、なのかもしれないが。
英語を使う私の友人らは、メールや手紙において、そんなに「I」を文頭にたくさん持ってこない。英語でも、そういうことは可能だ。なんていうか、段落がすべて「I」で始まっていたら、くどいし、自分のことばかりの内容になっちゃってあまり良くないということを、みな何故かわかっているみたい(あるいは、ただ、繰り返し「I」使うのは嫌だなぐらいのことだったりして)。
吉本ばななさんが同じ対談で、イタリア人は主語をつけるとキツい感じがするから「自分が」と主張するときにしか主語をつけない、とおっしゃっていた。似たような心理ではないか。
もちろん、思考は言葉に左右されるところがあるので、記法から内面を推し量ることはできるが。
アメリカ語の直裁さに違和感を持つアメリカ人だって、きっとたくさんいるはずだ。日本文化のあいまいさにずっと違和感を持ちつづけてきた日本人の私がいるように。


私の世界中の友人たちは、言葉を使うのが苦手で、しゃべるのがもどかしくて、オーラが視えたりして、他の人があまり感じないことを敏感に感じたりしている。彼らにとって、言葉は二次的なものであるはずだ。
そんな人たちが世界中に、きっと、たくさんいる。
だから、神秘的なことを書き続けるよしもとばななさんの小説が、世界中で売れ続けるんじゃないだろうか。


最終的には、英語でも日本語でも、韓国語でも、インドネシア語でも、何語でも関係ないように思う。その言葉を使う人間が、同じだから。
私という一人の人間が、英語、日本語、韓国語を話すとき、異なる言語を話しているのだけれど、本質的に人間の言葉を話している。表面上の言語表現だけ見たら、違う。けれど、違いは、言いたいことをどのような表現に乗せるか、それだけだ。感じている私の感覚は、同じである。
たぶん、私自身が、言葉と離れて、はっきりとした内的な実感を持つようになったから、そう思うんだろう。


  日本語ぽこりぽこり
  同じことをアーサー・ビナードさんも感じているようだ。英語と日本語の違いを強調する人が多いけれど同じじゃん、と私はかつてHPに書いた。同じことを彼は言っている。

当初、早く言葉を覚えようと日本語漬けの日々を送っていたら、英語とのあまりの違いに「自分が別人か二重人格になった気がした」。ところが4、5年で「似たところも多いじゃないか」、7、8年で「直訳できなくても何でも言い換えられるぞ」、そして10年で「人間て同じなんだなあ」。

  同じ過程を私もたどった。今度読んでみたいな。
  そんなこと言っといて、自分とは結構異質そうな人の本ばかりよく読むんだけど。


あと、おもしろかったのは、

河合「ニューギニアだか、どこかだったと思うんですが、そこでは「相手がノーと言わなければならないようなことを言うのは、そういうことを質問する人の方が失礼だ」と」

おもしろいなあ。日本人はそこまで極端じゃないけれども、でもこのデリケートさは日本人の持つそれに似ている。
世界のいろいろな文化にふれると、絶対的だと思っていた自分の今ここにあるモノサシが相対化される。とても楽になる。