コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

基準

私の中にある差別意識について。


『不美人論』を読む。*1
西研(哲学者)と藤野美奈子(漫画家)の、ブスについての対談。

不美人論

不美人論


(出版後の鼎談)『不美人論』をめぐって(2004/4/18収録) → 西研さんを始めとする知的(?)な人たちは、女性を外見だけで判断しないみたいだ。安心した。






3年前、オタキング岡田斗司夫氏の『結婚ってどうよ!?』や『話を聞かない男、地図が読めない女』続編を読んだとき、彼らの言うとおり、多くの男性は「○○○付の家政婦」(岡田斗司夫)が欲しいように思えた。
弟は、彼女は「かわいいからつきあってる。かわいくなかったらつきあってない。かわいいコとしかつきあわない」と言い切る。
弟には顔を合わすたび「ブサイク」と言われる。受け流すが、実は傷つく。


男性の女性に対する評価基準の多くは外見である(一方、女性は男性の外見以外にも様々な要素を大きく考慮する)という理論にも一理あると納得できたので、その理論に基づき、実験してみた。3年前。ギャル系のファッション。キャンギャル時代。
1年以上経ち、自分の個性を出さない、誰でもいい私みたいな格好に飽きて、元の自己流ファッションに戻った。
いまだに多くの男性の求めるセクシーさに応えようとする(ときがある)。
面倒だけど、ギャル系の服装をしなければいけない気がする(ときがある)。
何のために? 多くの男性にモテるために?  
根本的に、問題の立て方が間違っている気がした。
3年前の「多くの男性は……」理論の採用が間違っていたのだと思う。
私と縁のある男性は、「多くの(つまり多数派の)男性」ではなかった。
マイノリティ。変わった人。であり。女性に外見の可愛さと従順さを求める男性ではなかった。



   ☆  ☆  ☆



弟は、私たち家族3人と違って、まるで労働者階級みたい(これは差別かな)。
インテリは、なるべく差別をしないように気をつけるし、また差別などしていないふりをする。
弟は、だって障害者気持ち悪いじゃん。お〜、差別してるよ。だから何。と言う。


彼は、美人とそれ以外をあからさまに差別する。
私は弟を愛しているけれど、彼のこういうところは嫌だなあ。そのうち成長するだろうと待っているけれど。
身近にブスをあからさまに差別する男性がいるのは、藤野さんと同じだなあ。


中流意識を持つ非常に多くの日本人と日本で暮らしていると、階層差を感じる機会はあまりないと思う。多くの日本人は階級などないように振舞っている気がする。けれど、西欧人や米国人と話し現地で暮らすと、はっきりとした階層の差を感じる。労働者階級って本当にあるのだなあと実感する。
階級がないと言ったら嘘だ。階級はある。
差別も、ある。



   ☆  ☆  ☆



また弟から「ブサイク」と言われて傷つき、まるで自分が本当にブサイクみたいな気がした。一瞬。というか、まる三日。思い起こせば、十代の頃からときどき告白されてきたし、それなりに多くのいろんな男性とつきあってきた。実際は「普通」だ、と思った。
『不美人論』や田口ランディのエッセイを読んで、道行く人にいきなり「ブス」と言われる人がいるのを知った。自分は「ブス」と言われたことはないなあ。突然、振って湧いたように「ブス」と言われる。つらいなあ。そりゃ、つらい。これは実際にはよくあると思う。酔っ払った男性は罵詈雑言を吐きそうだし。
また、美人は本当に得をしているらしいと知った。美人はタクシーや店で払わなくていいと言われるらしい。お姉さんきれいだから「払ってもらうの悪いから」 払わなくていいから「毎日店に来てくれよ」 信じられないけれど、本当なのかなあ。
確かに、すごく匿名性の高い、つまりは非常にありふれたギャル系の服装をしていると、男性はみんなすごい親切だ。話しかけてくる、褒めてくれる。ちやほやされる。見ず知らずの男性から何時間も凝視というか監視されちゃうしなあ。
美人はこういうのがすべて当たり前+さらにプラスポイントなのね。


  • 『不美人論』まとめ

藤野美奈子さんは言う。人が人を美醜で差別するのは当然で、ある程度はしかたないことだ。差別をなくすのは無理だ。ただ、女性を見る物差しとして美醜が決定的だという今の価値観は行きすぎだと思う。その価値観を緩和したり、また女性が評価される際の他の価値観を増やしていくことが大切だ、と。


同意。人が人を差別するのは、人としての本性だと思う。


「ブス」問題はタブー視されている。
ブスであることに徹底して向き合い、ブスであることの問題を考え抜いた藤野美奈子氏は尊敬に値する。称えたい。(すいません、えらそうに。エロそうに。)




まとまりませんが、まずはメモ。。

*1:図書館でたまたま目にして借りてみた。私は十代の多くを「人間は中身だ」と思いオタク的に好きなものに熱中して過ごしたので、二十歳を越えるまで人間の外見についてほとんど考えたことがなかった。二十歳ごろに、相手の外見的属性によって態度を変える友人や弟の存在に気づき、非常に衝撃を受けた。今頃、巷の中高生のように、人の容姿に興味津々。