コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

単一民族神話の起源

小熊氏が村上龍氏と対談しており非常に興味深かったので、小熊氏の著書を読んでみた。

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

読み込みたかったのだが、結論だけ読んだまま、図書館の貸出期限が来てしまった……。

①民族混合論
本書に依れば、敗戦までは、海外侵略(進出?)正当化の必要性から、朝鮮・中国からの渡来人、南方から来た人々・アイヌ等の混合が日本民族であると説かれることが多かった。「日本民族」がアジア各地から渡来した多様な人々から形成されているのだとしたら、大日本帝国が改めてアジアに進出し版図を拡大することも「自然」であるという理屈だ。この理屈では朝鮮や中国を日本に編入するのも「自然」なことである。


単一民族
戦後はこの反省から単一民族論が説かれることが多かった。「日本民族」は太古から日本列島で概ね平和に暮らしてきた単一の民族である。戦前は日本民族の伝統」に反し海外侵略したから痛い目を見たのだ、という理屈だ。



戦前と戦後で正反対の理屈が採られたのは社会的ニーズを反映してのことに他ならない。著者はこのような「国際関係における他者との関係が変化するたびに、自画像たる日本民族論がゆれ動くありさま」(p402)を描く。「日本民族の歴史と言いつつ、じつは自分の世界観や潜在意識の投影を語っていたにすぎない」(同)のが多くの民族論の内実であった。


amazon.co.jp そばばばんさん

日本人の単一民族説が流布したのは、戦後だったのだね。
戦前は、むしろ、大東亜帝国が拡大するための理屈として、日本はもともと多民族国家だったという説が有力となっていた。


民族の起源のような、どうやっても確証のしようがないものを、人間は自分の揺らぐアイデンティティを固定化するもっとも簡単な(安易な)道具として、使ってしまう。民族論・民族神話の歴史に人間の哀しい性が見える。愛すべき、と言うべきか。


人間は知らないものを類型化しようとする傾向を持っている。それは、未知なるものへの不安を軽減するためだ。「おはよう」と挨拶したら突然頭をぶん殴られる事態は想定しないでおく方が不安が少なく暮らせる。そこで、類型化する。生活をパターン化し、労力を減らす。それは伝統と呼ばれる。人はその伝統を維持し、また新たに作り変え、生きてきた。


四百頁ぐらいの大著で、読みにくかったなあ。彼の社会学修士論文であるので。
もう一人のリビュアーが、この本を読んだら「日本人は……」と言えなくなる、と言っていた。
私も日本に住む人々の多様性を実感したいなあ。
とりあえず、沖縄に行ったら、おぉ、同じ日本でも東京と全然違うじゃん、と多様性を実感しそう……?