コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

才能ってなんだ?

吉本隆明糸井重里悪人正機』(2004)
糸井さんの質問に、吉本さんが答えた、吉本隆明の語りおろしコレクション。
悪人正機 (新潮文庫)

自分でもあんまり好きじゃねえなってところは、もうほっといていいと思うんですよ。
それで、ちょっとでもいいから「これは長所だ」と思えるところだけ、伸ばしていけばいいんじゃないかと思いますね。


10年間やれば、とにかく一丁前だって、もうこれは保証してもいい。100%モノになるって、言い切ります。


自分だけが決めたことでも何でもいいから、ちょっとでも長所があると思ったら、それを毎日、10年続けて、それで一丁前にならなかったら、この素っ首、差し上げるよって言えるような気がしますね。


毎日やるのが大事なんですね。要するに、この場合は(足し算ではなく)掛け算になるんです。


これについちゃ、素質もヘチマもないです。素質とか才能とか天才とかっていうことが問題になってくるのは、一丁前になって以降なんですね。けど、一丁前になる前だったら、素質も才能も関係ない。「やるかやらないか」です。そして、どんなに素質があっても、やらなきゃダメだってことですね。


小林秀雄、あの人なんかは、もう大家になってから、やっぱり自分には素質がないって、言ってますよね。(略)ものすごく伸びやかな素質があってああなった、とは思えないんですね。そのためにムチャクチャ努力した、ということもないと思うんです。何となく、食う食わないって問題も交えてずっとやってるうちに、ある持続的な年齢、年を経ちゃった(略)これはもう必然というか、これを書かざるを得ないからずっと書いてたとか、そういうことも含めて、要するに、とにかく続けてやっちゃったよなっていうことが、一番の問題なんじゃないでしょうかね。


志賀直哉は素質ですよ。『和解』を書いたのは、たぶん30代の初めですよね。それと、『暗夜行路』。その他は全然ダメですよ。それ以上伸びてない。この人はとにかく素質で書いて、そのままスッと行ったんですね。芥川龍之介とかいろんな人が、その素質の部分を羨ましがってね。芥川なんか、刻苦勉励なんですから(笑)。


だけど、志賀直哉の作品は何でもないですよ。太宰治志賀直哉と論争した時に、こんなことを言ってるんですね。
(略)「俺の小説は一行目からもうおののきで、どうなるか自分でも分からない」


才能とか素質とかっていうものは、何をするにも必要だってことじゃないし、邪魔になるってこともありますからね。


「『素質』ってなんだ?」

太宰治の小説の一説なんですけど「自分はへとへとになってからなお粘ることができます」って言葉があるんですね。
結局、頭良すぎてキレすぎる人は、何かポシャっちゃって、へとへとになったとき、もう全部やめちゃえって手を引いちゃうんです。潔いって言えば潔いんでしょうけど、頭はよく回るもんだから、やっぱり才能、才気の持っていきどころがないというか。


「『仕事』ってなんだ?」

太宰治、情緒不安定で、自殺しちゃったからなぁ。
高い感度を持った人は、この世は生きにくい。
それを思えば、死にかけた私も才能があるのかもしれないけど(何を言ってるか)、けど死んだら何も作業ができぬ。
才能などより、毎日コツコツ(ほとんど単純な)仕事ができるということが、(ほとんど)形に現れたもの(ばかり)を評価するこの現世では、いかに大事かということである。


才能というのは、やはり、私の体内で飼ってた黒い犬みたいなやつのことを言うのだな。
如何ともしがたい衝動。
自分では統御不能なのだ。


黒い犬はいない方が、平和でいいよ。
 
 
 

  
だから、本当に、素質や才能は関係なく、
あなたが何をやりたいかということだけで、
やっていけばいい。


吉本さんは特許事務所でドイツ語翻訳のアルバイトをしていた。
アルバイトの勤め先からの給料と、原稿料が同じぐらいになったとき、
アルバイトが面倒になり、物書きを職業にしたそうだ。
物書きは浮浪者と同じくらいの視点の自由さがあり、
三日やったらやめられないそうだ。


続けられることが、真なりね。