コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

自分に、遊ぶことを許そう(的なピューリタン的生真面目さからの解放の手紙)

そうだった。
自分の足で立つ感覚。
その感覚を得るため、米国に何度も馳せ参じたのだった。
今回米国でホームステイし、自分で車を運転できなかった。
物理的に、自由じゃなかった。ホストについていくだけ。
だから、退屈した。
ある一点で、映画『Sex and the City』のSamanthaは、私とシンクロする。
恋人に、自分の欲しかったリングをサプライズでプレゼントされ、
あまり嬉しくなかった彼女。
自分で努力して獲得した、この感覚のあまりの素晴らしさを知っているから、
他人から無料で贈られても、嬉しくない。


退屈。退屈。退屈。
自動的な応答に慣れきった自分。飛び出さないように、"フツウ"であることに徹する自分。
(しかし、人に対して、自動的に応答できるようになることは、プロセスとして必要だった。
なぜなら、何からどのように話すか考え始めると、永遠に発語できない。
この10年間、スタイルを決めないことがテーマだった。
まるで「こだわらないことが、こだわり」であるかのように)
もっと、自発的に、自分で言葉を選び、気持ちをのせていきたい。


そう、「アートと愛があれば、場所はどこでもいいのか」
という*1質問への回答は、

どこでもいい。
アメリカでなくてもいい。

*1:1ヶ月前の