コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

Adriana Macias




障害の有無に関わらず、
人は、
美しいものが好き。
可愛らしい人が好き。
一生懸命生きている人が好き。
賢い人にはリスペクト。


太った人や、ぶすな人は、
愛想良くふるまわないと、なかなか人づきあいがうまく行かない傾向にある(と思う)。
ただ、美人な人でも、冷たい人は、敬遠される。
モデルとバーテンダーをやっていた(だったと思う)超美形の同級生は、周りに誰も近寄れない、孤高の雰囲気。人と話しているのをついぞ見かけたことがなかった。
ということを考えるに、パッケージよりも、
友人としてつきあいやすい人のほうが、
愛情に満たされて人生が充実する気がする。


  ☆


そして、たぶん本当にやりたいことがある人は、
人にどう思われるか気にならない。(気にしてる暇がない)


私も、創作に熱中していたときは、
多少、彼氏に嫌な点があ(るように感じられ)っても、「悩ま」なかった。流す。
悩んでいる時間がもったいない。だから、「問題」にしない。
時間が経てば何か変わるでしょう。
それでも、解決しないことは、向こうからやってきて教えてくれるでしょう。


  ☆


5年ぶりぐらいに左脳右脳テスト(簡易@ネット)を何件かやってみた。


Input: 左脳
Output: 左脳


だった。10年前に逆戻りしてた。


8年前ぐらいは、


男脳 → 女脳


になりたくてw


いろいろやってみて、
やっと「地図が読めなく」なったwww


しかし、最近また、一極集中型に戻りつつある。


職業に適応しようとした結果なんだが。
それにしても、接客業をやっていた際も、周りが見えてないと言われ。
職業人生を始めてからというもの、周りが見えてない、と言われるから、
これはもう性格なんだろうなあ。


受験勉強、楽しくてしかたがなかった。
毎日10時間勉強してた。


なので、また多分、男脳女脳テストをやったら、


男脳


です。と診断されるやもしれん。(※今やったら診断された。)


女ってやっぱり、
女に生まれるのではなく、
女になるんだなあ〜


  ☆


女とか男とか関係ないところで生きたいと思う。


ある作家が、女とか男とかの役割にこだわって、相手に期待しすぎて、離婚した、と
言ってた。
役割を大切にして生きる人たちを、伝統主義者、コンサバ、共和党wと呼ぶ。


私はむしろ、


あなたの名前は? と訊かれて、答えられなかったことがある。


性別があることが疑問だ。


なぜ、私は女らしく生きる必要があるんだろう。


それは、女らしく生きたほうが可愛がられて得だから。


可愛がられたほうが、人間関係、仕事、何かとスムーズに運ぶでしょう。


人間としても、結局一緒で、愛嬌があるほうが、
男でも、女でも、一緒に仕事をしたい、友達になりたい、と思ってもらえる。
それは、生きるための戦略なわけだ。


愛情が欲しいのに、トゲだらけのヤマアラシ、だと
近づいてくる人は奇特なひねくれ者だけなわけ。
そういった人とつきあうのは、非常に骨が折れる。


私のなかの何とも言えない部分があって、
女らしくしたり、愛嬌ある部下らしく振る舞ったり、
お客さんより下手に馬鹿っぽく振る舞ったり、
それは、社会適応しようとしてしてることなのだ。


多分、誰にでも、場合に応じて振る舞いをかえることはあると思う。
それが自分だ、と思うのだろうか。
それは、自分の一部、と思えばいいのだろうか。
それは、自分ではない、と自己否定してしまうから、いつまでもアイデンティティ・クライシスなんだろうか。
社会のプレッシャーに圧されて、
優等生だったり、
女だったり、
を無理に作りだしている気がする。


それは自分ではない、ではなく、
それも、自分だ、と思えばいいのだろうか。


多くの女は、特に私より年上の女性と話すと、
同じような話題になる。
自分を押し殺して、女という役割に、自分を合わせてきたのだ、と。
うちの母も、無理して、父に合わせてきたのを、
痛みと共に見てきたから。
わたしは、女という役割に胡散臭さを感じるんだろうか。
それとも。単に青いんだろうか。
どちらもなんだろうと思うんだけど。


納得して、演じられればいいのか。
そもそも、なぜ相手のニーズに合わせなきゃならないのか、わからない。
私のなかの感覚を、こころの中で、認めてないから、
いつも、私と相手との間にのっぴきならない共依存関係が発生するんだろうか。


  ☆


多くの人が「とりあえず」生きていると思う。
世の中に嫌なことが多いから。


苦痛も、成長のプロセスと思えば。


  ☆


相手と、自分の間に、クッションを置きたい。


相手のちょっとした一言で、大打撃を受けてしまう。
(※今疲れてるから。疲れてないときは何でもない)


人に真摯に対応することと、
鈍感力をつけることは、
どのように共存可能なんだろうか?


  ☆


統合失調症みたいな、一呼吸、一呼吸すら、しんどい、
という人の、感覚を忘れたくない。
それが、自分の一番の基準になっている。


私が、生きようと思ったのは、
一見あたりまえである、空気を吸うということすら苦しい。
そういった人たちが生きられるように、助けられるように、
私自身が強くなろうと、思ったからだ。
その原点を忘れたら、私が私でなくなってしまうというか、


一生懸命適応しようとして、
いつも過剰適応して、
過労になって、
倒れる。


何か、適応障害な気がする。


職場でのパターンが、
自分の生育状況を反映していることに、気づき、やや慄然とした。
繰り返してるだけ?


愛されたいから、過剰適応して、
疲れ果てて、倒れる。
毎度この繰り返し。


・うまく、Noと言うこと
・自分のできること、できないことを、見極める


この2つが必須だ。


いつもToo muchな感じ。


「これだけやってるんだから、褒めてよ」


と懇願している。


本当は、自分が自身に納得することが大切なんだ。


いつも、褒められたい。