コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

2 美しい顔、醜い顔

人を疑う 疑うことで仕事が円滑に進む
感じないようにする 鈍感にならないと仕事を円滑に進めるのは難しい


仕事をするということは、性格が悪くなるということなんだろうか
仕事をするということは、顔に深い皺が刻まれるということなんだろうか


一方、アラウンド50歳の方のダンス界の回顧本で、親から譲り受けたダンス教室を引き継ぎ、自分のふしだらのせいで夫婦の危機が訪れ、その後始末を親にしてもらった人の話を読むと、どこまでも甘い精神がたれ流しになっているのを感じる。反面教師にしたい。


 ☆  ☆


米国FOXの、ただのドラマだよな、と思いつつ偶然見てしまった青春ドラマ
「跳べ!ロックガールズ〜メダルへの誓い」で、
人の言うこと(ウワサ話)なんかに耳を貸さないで、自分の信念を貫きなさい、自分を信じなさい、
などと親が、オリンピック候補の体操選手である高校生の娘に向かって、諭している。
のを観て、
そうか。
と真に受けてしまうmeowow。
この年齢になっても、なお思春期の悩みでうろうろしているようだ。

 


頭の中が、世界の情報で埋め尽くされて、自分が消えてなくなってしまう気がする。



帰途につき、駅に向かう雑踏のなか、
大勢の通勤客に揉まれて前へと歩を進める。
何者にもならなくていい、
普通なんだ。


普通って何だ。
普通というのは、(マイノリティのように)自己証明をしなくても、今ここにいられる状態のことを指すのではないですか?


 ☆  ☆


生きるということは、苦労するということだと思う。
50歳になって、そのダンス界の人みたいに、親の七光(だけではないが)で傲慢な雰囲気が漂う人の苦労は、
戦争で苦労した人の顔の険しさとは較べものにならない。
苦労した人が偉いわけではないが。
自分が今あることを謙虚に見つめられない傲慢さは、私にとって不快なので、
どちらかというと、戦争で苦労した人のほうが(文句なく)共感を呼ぶのではと思う。


一方、美学の傍観者としてではなく、
個人的に人間関係を結ぶのに、
両者のうちどちらが個人的につきあいやすいか、というと
多分50歳の女性かもしれない。
戦争で苦労した人は、息子(私)を体罰することを何とも思わないかもしれない。
甘やかされて育った50歳の女性は、私には何の危害を加えないかもしれない。軽蔑の一瞥をくれる以外には。
そうすると、私は後者の50歳の女性の方が個人的に好きになるかもしれない。


そのように考えていくと、
私の快・不快感、私の美学、などは、
すべて、ではなくとも、大半、
深い考察、洞察、経験を加えると、
変わりゆくものであると思う。


私の感覚は、どこまで信じられるのか?


 ☆  ☆



太陽の光のビルへの反射の美しさに見とれている間に、写真に撮られた。
自分の顔が、(普段より笑)美しく映っていた。
けれども、齢を経れば、多少の苦しい経験が、顔に反映されて当然だと思う。


やっぱり、若さだけが美ではなく。
私が今まで見てきた美は、表面的なものだった気がする。


もっと深いところに、美を感じられるような予感がする。