コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

ただ黙ってそばにいる

中陰の花 (文春文庫)

中陰の花 (文春文庫)

 紙縒は、流産した子供の供養塔だったのか……?
「これが完成したら、お経あげて、な」圭子は微笑んでそう言った。それは、則道の予測した台詞だった。則道はすぐに「おう」と答えた。しかしその台詞が予想どおりだっただけで、則道にはそれ以上の何かが分かるわけではなかった。則道は「わかる」ということがそう重要ではないのだと思い至った。圭子自身、「わかる」ことのためにこれほどのエネルギーを注ぎ込めはしなかっただろう。
 静かな雨が窓の外で降りだしていた。中庭に植えてある小熊笹の雨滴の落ちる音がここちよく頭の中に響いた。何にせよこの紙縒たちは、圭子の「祈り」なのだ。その膨大な時間そのものであるような紙縒たちが、今、なにかのきっかけで大きな集合体になろうとしている。そのきっかけはウメさんの死であったのか、あるいは徳さんとの会話にあったのか、それとも流産した子の命日が近づいたからなのか……、多分すべてを含んでそれだけではない。そういうことだ。


2001年に発表された玄侑宗久さんの第125回芥川賞受賞作。
引用部分の、前半が印象に残った。
「ただ黙ってそばにいるということ」について、なんとなく腑に落ちた気がする。


上質な小説を読み終えた読後感。
田口ランディの『富士山』を読んだ読後感に似てるかな。
そういう精神世界が好きな人には、オススメです。宗教・哲学的な作品だよ。



まったくわからない人のそばに、ただ黙っていつづける。
なんだろうなあ。そういうことは生涯、一人に対してしかできないような気もする。
つまり配偶者に対して、ということだけれど。


カウンセラーって、河合隼雄さんもご自分でおっしゃっていたと思うが、かなり奇特な人々であるようだ。
濃密な、深刻な問題を吐露するようなお話は、悩みもあるけどまあそれなりに明るい生活を送っている人たちにとっては、どうみたって、一週間に一回一時間*1が限度だよな。


お坊さんや、牧師さんや、近所のご隠居さん(というか今はそんな人あまりいないだろうな。とりあえず、近所に住んでるおじいちゃんや町内会会長さんか?)は、誰でも悩み相談にくれば受け入れる(ように努める)わけで、すごいなあと思う。


いろんな人のことを、「最後まで受けとめる」ことができなかった。
でも、それは、人として、もしかして、当然のことなのかな?
その人の心のことは、私には助けられない。「できない」という前提に立って、
じゃあ、何ができるのか、発想し、行動していく。それが、大切なんだろうか。


ひきこもりで苦しんでいる人を救うのは、美味しいものを食べさせてあげたり、
お金をあげて好きなものを買わせてあげたりとか、いわゆるそういう慈善的なことではないように思います。


私は、目の前の、自転車が転倒してコケている人を起こすことで、その人が起きるのを助けることができる。
けれど、目の前の、心の中で葛藤を抱えている人に対して、
物理的に何か具体的なことをしてあげられるか。それはなかなか難しいことであるようだ。


 
 
 
 

*1:カウンセリングを受ける際の、一カウンセラーに対する一クライエントの、一般的な持ち時間