コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

カッコイイ生き方

世界放浪して自分の生き方を追求した本がベストセラーになっている某さんのように、「狩人」である人の生き方はカッコイイ。けれど、実際の人間、地に足つけて一つところで生きざるをえない人間の姿は、それとは違う。彼らの大半をカッコ悪い泥臭さが占める。放浪型の人生(坂本龍一さんもか)は、人間の生き方としては珍しく、例外的なものではないか。
曽野綾子さんが、書くことしかできないからしょうがなく作家になった、と述べておられた。
今の私の生き方も似たようなものだ。私の半分は狩人で、常に新しい外の世界に関心が向く。今を捨て、新しい地に期待をかける。一方で、私は体力に制限を持ち、精神的に脆い。変化の少ない安定した環境がないと、やっていけない。本当に、死にそうになる。某さんのように攻めの姿勢で正論だけ語っていられたら、カッコイイと思う。けど、私にはそれはできない。今のどうしようもない自分を受け入れるしかない。
藤野美奈子さんの『不美人論』を読んで思った。たとえ客観的には*1(つまり、現代の私たちの文化における美の基準において、またその文化のなかに生きる人びとの基準において)*2ブスでも自分は「可愛い」「カッコイイ」と思わないと、人間はやっていけないのだな。外見についての自己イメージは、意外にも実際の全体的な自己イメージと直結しているのだ。意外だ!
皆、自分を肯定して生きたい。自分を肯定できれば、生きるのが楽だから。
実用書や雑誌は、「カッコよく、可愛くなる」方法を説く。映画は、世界で*3最高に美しい女の麗しいしぐさを描く。小説は、人間のカッコ悪さ、例えば行為の最中に焦りつつそそくさとゴムをつける男のもの哀しさみたいなもの、を淡々と描く。ミーチャ・カラマーゾフの生きざま………。救われる。
藤野美奈子さんが「行為をしている自分が可愛いと思えないから、最中にすごく冷めてしまい楽しめない」と言っていた。確かに自分を美しいと思えないと、没入できないところがある。映画に影響されている。映画など、人類の歴史からすればごく短い歴史を持つだけなのに。
「客観的な」視点は、実は単なるカメラ(機械)の視点に過ぎない。本当の人間の視点は、もっと憎しみや冷笑や愛をこめて対象を観ている。美人の行為だから美しいというよりは、好きな人の行為だから美しかったり、愛らしかったりするのだろう。

*1:間主観的には、と言うべきか。

*2:本当は、日本でブスでもアフリカに行ったらもてはやされることもけっこうあるし、また日本でも古代だったら美人だったかもしれないので、あなたは美人なのかもしれない。けれど、あなたの実際の問題としては、今日本で生きているし、日本で生きなければならない。からアフリカに暮らせるわけでない。日本でカッコよく、可愛く、またはブスと誹られない程度に生きていけることがあなたの課題なのだ。ただ、知識や体験として、他の文化基準ではあなたはブスではないと知ることや体感することは、ずいぶん今のあなたの生き方を楽にしてくれると思う。

*3:西洋世界およびその作品を好むアジア市場において。ということで、もちろん地球全体を指すわけではない。また、もちろん映画でも気持ち悪さや恐怖を革新的に描いたものはあるが、ここで私が指すのは大衆を動かすメジャーな映画のこと。