コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

通訳と「三角形」

長い引用で申し訳ないが、読んでみておくれ。

◇「三角形」で全体像が見える◇


通訳は話し手の口となり聞き手の耳となって、自分というものを押し殺していくような面がある。本来自分の思想や感情を整理したり伝えたりするためにあるはずの言語駆使能力を一時的ではあれ、他人様に従属させなくてはならない。自己表現を求めてやまないタチの私には全く不向きな商売、天職に出会うまでの仮の姿のつもりだった。


それが二十年も続いたのは、ある時、通訳する両者の立場をそれぞれ小宇宙とみなせば、狭量な自我が、この二つの異なる小宇宙をつなげる、より広大な宇宙に浮上するような快感があるのに気付いたからだ。世の中にはいろいろな考え方があって、どの考えも対等。様々な考え方の型そのものを楽しむ余裕も出てきた。己と他者、そしてもう一つ、両者を相対化するものによってつくられる三角形の発見だ。


この三角形は、窮地に陥ったり、ものを考えていくときの基本となった。対立であれ、協調であれ、二者間の関係は直線である。折れやすく、逃げ場がない。その点、三角形は非常に安定している。たとえば、外国語の学習も、一か国語だけよりも、二か国語同時に学んだ方が、楽だし面白い。母語と違って意識的に身につける外国語は絶対化しがち。第二外国語を知って初めて母語も第一外国語も第二外国語そのものも突き放され、全体像が見えてくる。つまり征服しやすくなる。


異文化も三角形ができると世界が立体的で面白くなる。一つの外国、しかも世界最強の超大国しか目に映らないと、ついその「グローバリズム」とやらに縛られる。 もう一つ、対置できる文化を心に持つことで、常識や権威を、まずは疑ってみることが属性になる。より自由な魂を維持できるということである。


米原万里さん(ロシア語同時通訳)


色彩検定1級のテキストを読んでみた。予想を上回る専門性だった。光量の計算式でX+Y+Z/何とか……が出てきたり、壁材についての詳細が語られる。ちょっと……興味を失いかけた。「何のためにこれを勉強するんだろう。」 そう思ったら、けっこうアブナい。夢中になっていない証拠である。


販売の職場で、複数のレジにおいて一万円札と五千円札を両替する、その単純な算数の段階で途惑う。同僚が苛立つ。自分はけっこう何も知らないのだな。ずっと単なる英語オタクだったのだ……。英語だけは翻訳できるレベルまで行った。
英語の模擬試験ではよく全国で1番またはそれに近いものを取っていた。自分の人生において、他人との《全国規模の》競争で1番になったことは、それぐらいである。当時の私は「アメリカ人」になりたかったのだから、目指すレベルが違った。

牧場でバイトしていると、朝5時に起きて、馬を放牧する。ぼっこ返し(馬がいる小屋の干草を裏返す)をして乾燥させる。そういうようなことをしながらお金を貰っていた。同僚は、ほとんどが中卒だとか、高校をドロップアウトしてきているような奴らばかりで、当時東大の現役の学生なんていなかった。

で、そういうことをしていたら、同じバイト仲間である日、夜飲みながら話をしているときに、ある奴が、糸賀さんは俺たちと一緒に寝起きして同じ仕事をして、こうやって同じ酒を飲んで、同じ給料を貰っているんじゃ「意味がないんだ」と言い出した。糸賀さんは糸賀さんの持っている能力を活かして、もっと社会のためになるような仕事をして、俺たちのためになるようなことをしてくれなければしょうがないんだ、と。


私の人生を変えた「ニ外:ロシア語」問題


素直にこの文章に感動した。
自分もせっかく英語を話すのだから、それを生かす仕事をしたい、かもしれない。


通訳。私も米原さんと同じく「自己表現を求めてやまないタチ」だと思う。そんな性質の彼女でも20年間通訳が続けられたとか。意外だ。
通訳はいろんな人と出会うことと、ずっとしゃべり続けることがいいなあ。通訳業をやりたいと思ったことはないけれど、やってみないとわからないかもしれない。*1そもそも小さい頃からずっと不仲な両親の間を取り持ってきたわけだし。火星語と金星語の翻訳が習い性になっている。
翻訳は性に合わなかった。ずっとコンピュータの前にいるのは苦痛だ。他人の言葉を逐語訳するのも、苦痛だ。オフィスワークは向かないようだ。


自分の語学の才能(哀しいかな言葉の才能ではない……それって何だろう? 国語より英語の方が好きだし得意だった。多分、創造的というよりマネするのが上手いのかもしれない。ライターとしては自分の核となるテーマや言いたいことがないのが致命的)を生かす仕事。
英語一辺倒ではなく、第二外国語をやろうかな。ロシア語がやりたいけど、将来仕事に役立たせることは可能なのか? ソ連が崩壊し共産主義が遺物となった今、ロシア語を学ぶメリットはあるのか。ちょっと調べてみた。外国語学習は、興味がないと持続しないようだ。「世界で話す人が多いから」というだけの理由で中国語やスペイン語を勉強しても使えるようにならない。たしかに高校のとき第二外国語として学習したスペイン語は、ほぼ使う機会がないし、あまり使いたいとも思わない。人に出会ってないからだろう。ロシア語については、ドストエフスキーやロシアの絵本を原語で読みたい!という強い熱意がある。ロシアのバレエ文化。ブルガリアブルガリア人の親友(英露語speaker)がいる。世界の趨勢とは別に、ロシア語しゃべりたーい。




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夕食時、英語を仕事で生かせないかと、家族に話してみた。「都心の店に勤めたらどう? 外国人客が多いでしょう。大使館が多い広尾とか」
それはいい。以前新宿の店に勤めていたときは、お客さんに多様性を感じられて*2面白かったなあ。色んな国の人、奇抜な服装をした妙な客、パンクなミュージシャン、ゲイカップル、ナチュラル・オーガニックなヒーラー的女性、はたまたどう見てもDV関係にある美男美女のカップルなど、「何でもあり」な感じだった。*3
都心の、外国人客の多い店に勤めて、毎月12ヶ国語を話したい。もう少し体力をつけたらそれは可能だ。
今の販売の仕事には、違和感がない。私にとっての"it"なのだと思う。やりがい、面白さ。私は販売に向いている。自分のセールストークで今この瞬間売上が伸びる。最前線に立つ臨場感。面白いほどリピーターがつく。短気な私には、すぐ結果が出る販売の、適度なアグレッシブさが心地いい。めったなことではこの環境を手離せない。

*1:どちらにしろ、今の私が通訳業をするには、高い緊張の連続である業務をこなす体力と機敏さが足りない。

*2:見かけ上の『多様性』か? 多様性diversityとは何ぞや。けれど服装がその人の自己表現であることを考えれば、外見を見てその人の内面を判断する行為も、あながち一面的とは言い切れない。

*3:大っぴらに変わった格好ができるのに、原宿にはない正統性も併せ持つ新宿が好きだ(原宿にもなぜか縁があるけど)。清潔な都庁ビル街、エレガントな伊勢丹客と、胡乱でカオスな歌舞伎町が、混在する街。