コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

使命感

仕事をするにあたり、個人的な面白さややりがいとは別に、使命感を感じられることは重要だ。誰も相手にしないであろう人を相手にすることに生きがいを感じる。*1
外見がみすぼらしい浮浪者*2のようなおじさんがよく店に来る(小銭をスーパーの白いビニル袋から出す)。同僚の多くは彼のことを「生理的に気持ち悪い」と嫌う。本気で相手にしてない。あたしは相手にする。私がしなきゃ誰がするのという思いからかな。「身体障害者」や「部落出身者」や「在日」や「外人」などのカテゴリに入る被差別者の人たちは、個人的に知り合えば、人としてけっこう面白いと思う。当たり前の話だけど。不思議と、身なりが不潔な人たちに対して、多くの人が言う「生理的な気持ち悪さ」はほとんど感じない。(使命感があるから感じないのか? 自分でもよくわからない。)
まぁ、今回はたまたま生理的な嫌悪感を感じないだけであり、すべての人を差別しないわけではない。もちろん。
自分は人を差別しているという前提があり、その上で意識的に差別しないようにと努めるわけだけど。その意識はやはりあるとないとでは違うのでは。苦しいことの多いあなたの世界を少しでも呼吸しやすくするために。

*1:これはマジョリティとマイノリティを差別する行為か? 少数派を評価し、多数派を逆差別する行為か? しかし世の中の多くの人は不潔さなどの外見で人を忌み嫌うことが多いので、それを意識する人たちが少しでも差別しないように努めるのは、差別されることが多いだろう人にとって、いいことではないのか? ◆自分の意識と思考の浅さを感じます。◆自分のした行為は自分にとって気持ちのいい行為であったが、それが相手にとってそうだとは限らないことを肝に銘じたい。捨て猫を拾うことはいいことかもしれないが、一度暖かな小屋をあたえられて、やはり飼えないからと再度捨てられるケース。それは猫にとって幸せだったか。不幸だったか。◆私は仕事として彼の相手をするからできるので、個人的に知り合ったら友達になれるかはわからない。なれることもあるとは思うが、なれないこともあると思う。個人としてすべての人を愛するには、限界がある。仕事として時間と場所を限るから心をこめて対応できる。

*2:浮浪者もいろいろいて。仕事を探さずに楽して乞食して金を得るような人もいれば、本当に失業して住む家もなく絶望の真っ只中にいるおじさんもいる。やはり一人一人事情が違うのだと思う。どのように見分ければいいのか。先入見を交えずに話を聞くしかないか? それに楽しようという精神から乞食する人も今はクソな精神を持っていてもそのように育つ家庭の事情があったであろうし、あるいは元々「卑しく」――人をいたぶるのが楽しくてしかたがないとか――生まれついたとしてもそれは前世の行いであったり魂の挑戦であったりするわけで、私はその個人的な問題や魂の課題を責めるすじあいはなく、黙って話を聞くしかない。ただ魂の孤独をおもう★また、私たちが「卑しい」とする行為や精神も、ある価値観からすれば、素晴らしいことかもしれない。あまりものを知らない私にははかり知れないことがこの世にはたくさんある。この世は多数の層(レイヤー)から成ると信ずる。多くの異なる価値観や価値感覚が存在する。