コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

自由という神話

――(フランクフルト市のカンパニーである「フランクフルトバレエ団」を解散し、自身のカンパニー「ザ・フォーサイス・カンパニー」を立ち上げて)より自由になった?
ウィリアム・フォーサイス「いいえ。自由というのはあくまで神話。空間を読みかえても、公的な空間であることに変わりはない。だから空間は常に政治や文化的空間とつながっていて、自由ということはまずない。その場その場に適した解釈をするということが求められる」


  『DDD』Vol.5 5月号より


大学4年のとき、集団の利益に、自分の権利を侵害されたことがある。そのとき初めて私は「政治的なるもの」の存在を知った。 
パワーゲームは横溢する。 
政治的人間であることの面白さ。 


空間における自由は、相対的なものでしかない、幻想だ。たとえば権力から自由であろうとするプロセスのように、空間におけるベクトルである。絶対的な位置ではない。
絶対的な自由は、こころの自由。今、私は自由だ。そう感じる。
こころが解放されれば、仕事でわがまま放題する必要も、創作する必要もないかもしれない。


近藤良平「ただ即興というのは実は僕はあまり好きではないんです。なぜかというと、体にダンスの言葉があるとしたら、それをいっぱい持っている人はいいけど、僕も含めてそんなに多くはないじゃないですか。特にコンドルズのメンバーなどは、みんな僕の振りしかできないから、自由に踊らせすぎてもそんなに良くないです。僕は決めごとをどんどん出すので、そこからどういうふうに変えてくれるかに魅力を感じますね」
蜷川幸雄「(略)天才的な人たちには『自由にやってください』と言います。そういう人はいいですけれど、そうでないと」
近藤「見ていてくたびれちゃいますよね」
蜷川「舞台に出ていってとめたくなったりします」


  彩の国さいたま劇場PR誌「埼玉アーツシアター通信 02号(3/15発行)」より
  劇場の最寄り駅 与野本町駅に置いてあった。読みがいのある対談だった。

その道の天才は、「自由にやってください」と言われて、どんどんアイデアや技が繰り出せるんだなあ。
音楽的な天才モーツァルトが、無能な生活者であったように、人間として天才などありえず、ある特定の領域における才能ということだが。
あなたはどうですか?


私は、何もない状態で自由にやると、最初のうちは思うままに作品を作れる。でも、そのうちエネルギーが枯渇しモチベーションが上がらなくなる。欲動が解放されちゃったから。創作には、生涯逃れられない心の傷による衝動が必要では。無邪気な喜びから、音楽を作り続ける音楽家もいるけれど。あまり創造的でない人が創造し続けるためには、刺激を貪欲に探し求め、刺激され続ける必要がある。
書くために本を読む。ガソリン給油する。本末転倒だけど。


好奇心にかられていろんなことに手をつける。
今は、それらが脈絡なく見える。自分はどこに行きたいのか、よくわからない。
けれど、十年、二十年経ったら、すべてがつながるのかもしれない。





世界平和を創り続けることが生涯の目的かもしれない。
自分のなかは空っぽだ。
神さまの与えてくれることを何でもするよ。