コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

人間の暗部を見てきた人たちが

フランス現代思想系の哲学者である内田樹氏の
『疲れすぎて眠れぬ夜のために』を読み、
これもまた非常に気づかされるものがあった。
疲れすぎて眠れぬ夜のために


人間が、人間の暗部を見ることなしには
成立できぬものがあるということ。

 みんなが忘れているのは、戦後の奇跡的復興の事業を担ったのは、……日清日露戦争と二つの世界大戦を生き延び、大恐慌辛亥革命ロシア革命を経験し、ほとんど江戸時代と地続きの幼年時代からスタートして高度成長の時代まで生きた(世代な)のです。


 そういう波瀾万丈の世代ですから彼らは根っからのリアリストです。あまりに多くの幻滅ゆえに、簡単には幻想を信じることのないその世代があえて確信犯的に有り金を賭けて、日本に根づかせようとした「幻想」、それが「戦後民主主義」だとぼくは思っています。

はっきりしていることはその世代に比べると、戦後生まれのぼくたちは、基本的には自分たちの生活経験の中で、劇的な価値の変動というものを経験していないということです。飢えた経験もないし、極限的な貧困も知らないし、近親者が虐待された経験もないし、もちろん戦争に行って人を殺した経験もありません。貨幣が紙屑になる経験もありません。国家はとりあえず領土を保持していましたし、通貨は基本的に安定していました。

戦争も飢餓もほんとうのパニックも知らないぼくたちみたいな人間は、人間の本当の恐さというのを知りません。極限状況でのエゴイズムがどんなものか、指揮官が責任を取らないとどれほど破滅的な事態になるか、誰か一人が果たすべき任務を怠ることがどれほどの災厄を招くか、そういうことの、ほんとうの恐ろしさを実地には知らないのです。

 極限的なところで露出する「人間性の暗部」を見てしまった経験があるかないかは社会とのかかわり方に決定的な影響を及ぼしただろうとぼくは思います。


 「戦後民主主義」というのは、すごく甘い幻想のように言われますけれど、人間の真の暗部を見てきた人たちが造型したものです。ただの「きれいごと」だとは思いません。誰にも言えないような凄惨な経験をくぐり抜けてきた人たちが、その「償い」のような気持ちで、後に続く世代にだけは、そういう思いをさせまいとして作り上げた「夢」なんだと思います。

戦後民主主義」が虚構だということをよく知っていたのは、たぶん「戦後民主主義」を基礎づけた当の世代です

ぼくたちの民主主義は、……ちょうど映画のオープンセットの建物のように、表だけあって、裏には何もないのです。それを守るためには、それが「弱い制度」だということを十分に腹におさめておかなければなりません。

自分のいる世界(たとえば業界)が、たまたま出現した暫定的な制度にすぎず、それができるまでには、それなりの「前史」があり、何らかの歴史的必然性が要請したからこそ出現したものであり、歴史的条件が変われば変容し、ときには消え去るべきものだ……。

民主主義は「民主主義を信じるふりをする」人たちのクールなリアリズムによって支えられているのです。

「民主主義ではない制度」はいくらもありえます。成員が民主主義社会を「信じるふりをする」という自分の責務を忘れたら、別の制度に簡単にぼくたちの社会はシフトするでしょう。民主主義というのは、そのことを知っている人たちの恐怖心に支えられた制度です。


そして、私たちの世代はその恐怖を知らない。
「この社会はオレが支えなくても、誰かが支えてくれる」
と楽観している。
そんな「誰か」はどこにもいないのに。


  ☆ ☆ ☆


以下、まだ全然消化できてないが、
自分の言葉で描いてみる。


戦後民主主義」は「幻想」だけれども、
幻想だから悪いとか、機能しない、というのではなく、
極限的な人間の暗部を経験してきた人間たちが、
懸命に作り上げた仮の「夢」みたいなものであること。


私の子供のころは、


 真実=善いこと、
 嘘=悪いこと


というふうに世界を見ていたと思う。
だから、「幻想」=嘘 → 悪いものであった。
思春期に、
世界が『共同幻想』(吉本隆明)でしかない、
ことに酷く絶望した。
真実なものがない世界なんて無意味としか思えなかった。


しかし、内田樹氏の文脈においては、
「幻想」であることは不条理性に直結しない。
私達は私たちなりに「民主主義」という暫定的な制度を
何とか形にしているのだ、ということ。


人間は不完全なのだから、
その私たちが作った制度も不完全で当然なのだ。
そして、不完全なのだから。
完全な制度を目指すとか、民主主義を破壊する、とかではなく、
暫定的なbetterな制度を、工夫して使いこなしていくしか
ないのかもしれない。
完全な制度はありえない。
完全な制度がありえないことは絶望すべきことではない、ということ。


そして、多分この不完全な社会制度を、
少しは肯定する気になったのは、
自分の親や日本社会に対する
「基本的な信頼」が持てるようになったからだと思う。
そのような、ほとんど無意識なレベルでの
「基本的な信頼感」が持てない限り、
民主主義についても、資本主義についても、
あらゆる社会制度については、
憤慨することだらけで、
生きることが辛すぎると思う。


瞑想を通じ、
真実だったり、空と呼ばれるものを
たぶん感じている。
そうして、
この世界の現象がすべて
移ろいゆくものだという事実に、耐えられる。