コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

「客観的」な視座はどこにあるのか


「客観的に見ると」という言葉を私が
二十年ものあいだ口にできたのは、
私が、世界と私が繋がっていることを
無邪気に信じられたからだと思う。


自分に絶望し、
世界を徹底的に疑い、
「客観」性と「主観」性の関係、「間主観性」について
哲学していたときでさえ、
まだ何か「客観」的なものが世界にあるのでは
という「感覚」は
どこか隅のほうにかすかにあったような気がする。 


世界に絶望しているときでさえ、
大学ランキングを信じられたし、
人気コスメの価値を信じられた。
矛盾するようだが、
人間や主観や感情は信じられなかったけれど、
事実やデータや物はまだかすかに信じられた気がする。
「物は(人と違って)裏切らない」

 
私が愛されて育ったからだと思う。


世界の中に私がいる。
そのことを無意識に信じてきたから。





小さい頃の私は、

 私は「客観的に見て」醜い

ことを疑わなかった。
たとえ両親が私を可愛がっていたにしても。
私としては、両親が怖かった。
私には、確信的に思われた。
男子と女子は、「醜い」私に話しかけられるのは
気持ち悪いだろう、と。
実際は、私のことを好きな男子も女子もいた。
私がどんなに拒否しても、
私についてきてくれる友達がいつでも一人はいた。
(それに、敵地である学校にも、
 必ず親友が一人はいた。)
彼女たちがなぜ私を好きでいてくれるのか
わからなかった。
私は私をこんなに嫌っていたのに。