コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

仏教における諦念と絶対的相対主義と運命主義

はどう異なるのか?
同じでないのか。


諦念が主義化して、
諦念主義、となると、絶対的相対主義になるのか。


そうすると、「人生なんてそんなものさ」と斜に構えた達観した態度は、
仏教における諦念とは異なることになる。


周りの可能性に対して、常に開いていること。
なんだか難しいな。
要は、好奇心を持ってる、ということだな。


人生に対して自分が無力である、という諦念がいつも、
自分の人生の底に流れている気がする。


そんなことも、元気で踊ってるときは、考えもしないわけだが。