コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

妄想と知覚と痛みについて

もし狂気と呼ばれるものがないとする。
それはただのラベルだと、考えてみよう。
すると、教室で奇声を発する人はおかしくない。
(発したいから発しているのであれば、おかしくない。
 また、発したくなくても発してしまうのであれば、
脳の機制が発しない人とは異なると考えられる。
それを、障害、病気などと呼び、研究し、解決しようとするか、
遺棄するか、追放するか、放っておくかは、時代・文化に依る。)


おかしいと思われたくないから、静かな教室で声を発しない。


でも、前の席の人がその前の席の人にナイフでいたずらされているとしたら、
私は大声を発して、クラスと教師に注意を喚起し、abuseを止めるべきかもしれない。


私が、おかしいと思われていることを、しないのは、
彼らにおかしいと思われたくないからだ。


「前の席の人がその前の席の人にナイフでいたずらされている」のは、
私の妄想かもしれない。


けど、私は感じる。痛みを感じる。それは、リアルだ。