コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

主体と時間 

自閉症とマインド・ブラインドネス

自閉症とマインド・ブラインドネス

読みたい本。
「分裂病」の消滅―精神病理学を超えて

「分裂病」の消滅―精神病理学を超えて

図書館にあり手に取る。読んでみる。

豊富な臨床と最先端理論に基づき、分裂病による主体と時間の変容を綿密に追跡。「緊張病性エレメント」「戦略的エポケー」という新概念で、従来の分裂病論を大きく前進させ、この病を生んだ「近代」の意味を問い直す。【著者紹介】1955年東京都生まれ。精神科医。専攻は精神病理学東京大学医学部卒業。帝京大学医学部精神神経科助教授。著書に「スキゾフレニア論考」ほか。

興味深いテーマを目次から幾つか。

 序章 分裂病の時空の病理
 I 分裂病と時間 
   主体と時間 緊急病性エレメント
   未来の創発
   外傷と記憶
 II 分裂病と主体
   デカルト 戦略的エポケー
   ウィトゲンシュタイン 零度の狂気
   カフカ 主体の死

(やや)平明で簡潔な文章。専門誌に発表された論文であるわりに、
専門誌の中では易しいほうであると思う。分裂病に関する専門的入門。
書評を読むと、結局核心的な指摘へと突き抜けることはできなかったようだ。
私はこの本を一冊書けるわけではないが、彼とは知的な面で近いものを感じる。
同じ大学の1、2年先輩の論文を読ませてもらっているような錯覚に陥る。


当初『主体と時間』という書名を予定していたそうだ。
主体と時間について、分裂病という文脈で、読み解く。

彼(ある三十代の分裂病の男性)は幻聴を聞いているのではない。むしろ、幻聴が到来するたびに、彼は自己へと目覚めているのだ……。…………彼は「幻聴を聞いた私」という形で、壊乱の淵にある自己を取り戻していた。それはちょうど、われわれが夢から醒めたとき、「私は夢を見ていたのだ」という意識のもとに、われに立ち返るのと同じ構図にほかならない。


分裂病(2002年から「統合失調症」に改名)
において主体がどうなっているのか、
私がどう感じられているのか、
やっと少しヒントを得られたような気がする。








分裂病と主体」の章が大変興味深かった。
デカルトウィトゲンシュタインカフカ
私にとってなじみ深い。
彼らは強度の分裂病質であったらしい。

分裂病と時間」の章は、
時間についてさほど混乱したことがない私には、
意味不明の文章であった。



ニーチェが「神は死んだ」と喝破した頃から、
神(絶対的な理性)は、外在するものではなく、
私のうちに取り込まれるようになった。
それが「近代的な自我」である。
理性が自分の中にあるという認識のもとでは、
常に自分は狂気と隣り合わせになる。
理性は狂気を内に含むからだ。
(※「神」というのは、世界を凌駕するのようなものかな?)


分裂病の患者さんというと、自分は天皇だ、
という妄想に取り憑かれたりするのが典型例だと思う。
分裂病は、権威に関する病であるところに特徴がある。)


分裂病は、近代を特徴付ける「主体」という概念と深い関わりを持つ。
分裂病が実体を顕すのは、19世紀後半から20世紀初頭にかけてである。
ブロイラーが"Schizophrenie"という名称を与えたのはようやく1911年のことだ。
分裂病は、実体を顕した頃から約100年経った近年、軽症化が見られる。
分裂病が2002年に分裂病という名前から「統合失調症」という名前に改名されたことは、
この近代的病の終焉を示している。
もうすぐ分裂病は消えるだろう。
(主に「カフカ 主体の死」より。本書書き下ろしの項)


①について
自分に責任を持つこと。
それは、何か、個人の手に負えないことのような気がする。
神と手を結ばないことには、やっていられない。
近代的自我だけでやっていこうとすると、
発狂するしかなくなるのでは。


科学の万能を信仰した20世紀は終わり、
ヒーリングや全体主義的な医療が流行り出した。
トランスパーソナル心理学や、超科学などが出てきた。
近代的な個人主義の限界に人々は気づき出したのだろう。




④補遺
デカルトも、「2+3=5」であることの自明性に
疑いの眼差しを向けたが、
それはついに乗り越えられなかった。
デカルトも乗り越えてなかったのか、なーんだ。
私もどうして2+3=5であることが「自明」なのか、
超不思議なんですけど。

私が2に3を加えるたびごとに、
あるいは四角形の辺を数えるたびごとに……、
私が誤るように、この神は仕向けたのではあるまいか。
 デカルト省察