コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

"We Are Blessed"

「静謐な谷」の記事はあまりに暗かった。
自分でも余波がある。


あまりに暗いものを記事として
公衆の面前に放り出した。
公衆の面前で公衆トイレに行く感覚。
中が丸見えの公衆トイレね。
しかも大きい方ね。
尾籠な話で申し訳ない。


あれだけ暗いものを放り出したら、
ダークな物事について語ることが
面倒になってしまった。


青い鳥が目の前にいることに
改めて気づき、
嬉しさのあまり涎が垂れる。
飼い主に出会い、
玄関前で飼い主に飛びつき、
マスターの顔を嘗め回し、
体中を涎で埋め尽くす
ゴールデン・レトリバー


いつから犬になったんだmeowow。


恵み。
5年前は、与えられた物に
感謝しようとしていた。
内心は、そうでもなかった。
今、真に恵みを実感する。


例えば、五体満足なこと。
年上のおばちゃん友達に言われても、
ピンと来なかった。
今、よくわかる。
経済的かつ身体的に恵まれている自分が。
 
 
 


自分の恵まれている身体について
感謝することは、
右足が全く動かない人に対する冒涜なのでは、
と、この5年間、思っていた。
未だに疑問に対する明確な答えは摑めない。


例えば、私は経済的な事情から米国留学を断念したが。
親が留学に全額資金を提供する
高校生の交換留学生を見て、
「もっと感謝しろよ」とは思わない。
(そもそも留学すること自体が、経済的・教育的に
 上流であることを示してきた歴史がある。)


なぜかというと、
各自に与えられた条件はイーブンなわけだ。
彼女は、米国留学に行けたかもしれないが、
また別の面で苦労しているかもしれない。
私は、米国留学に行けなかったが、
また別の面で恵みを享受しているだろう。


シルヴィ・ギエムは、
身体的に恵まれたことを
自ら認めている。
けれど、ギエムは踊りにおいて
天才であるが故に、
凡人とはまた別の孤独を
味わっている。


神の恩恵への感謝は、
人との比較の問題ではなく、
個の内面の深みと豊かさに関する
問題なのかもしれない。


私は、他でもない私の人生を生きている。