コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

「本人力」の次元

システムってのがある。社会システム。どうしようもない貧困。弱者への差別。そういうのは歴然とある。でも、世界ってのはかなり多層構造になっている。システムに意識が乗っかっている限り、システムから自由になれない。制度というのは歴然としてあるけれど、抜け道はある。意識と感情と制度という三層構造がとりあえずあって、その三つの中心に制度があると制度から逃れられない。資本主義という制度に意識も感情も乗ってしまうと「お金があるから良い医療が受けられる」ということになる。


得か損かで発想する限り、誰も制度から自由にはなれない。自分の既得権益から自由になり、意識と感情を制度から切り離せば、世界の別の次元が見えてくる。もっと豊かで、もっと自由な人とモノが交流している次元がある。そこでは、地位とか名誉とか貧富ではない、別の価値でもって人と人が「本人力」で繋がっている。お互いの役割を自覚しながら、助け合う次元というのが、この世界には確かにあるんだ。私という働きができればそこにアクセスできる。それによってさらに「本人力」に磨きがかかる。そこでは誰とでも出会える。優劣がない。あらゆる存在には役割があり、それを認め合い助け合う次元というのが、意識の世界には存在する。夢でも、妄想でもなく。それは現実に存在する。そこはバリアフリーで、どんな私であっても私でさえあれば入れる。


田口ランディさん


感動……。


最近、本人力の層で生きていると思う。
それは人と人とが人となりでつながる世界だ。



  ☆ ☆ ☆


ただ。
どうして、こんなに女性の役割に腹が立つんだろう。


私が人を助けるときには、女らしさなんて意識していない。
なのに、「妻」「事務」
「男に尽くす女」などの地位には収まりたくない。
例えば、美容部員は、女としての美を売りにしなければ
やっていけない商売だと思うが、
自分が美容部員をやるとしても、腹が立たないと思う。
なぜか。
多分男のための美でなく、
自分のための美の追求、お客様の美の追求だから。


目の前の人が、はさみが切れなくて困っていたら、
私は代わりにはさみで切ってあげる。
それは、私でなくても私であっても関係ないことで、
ただそれは必要だから、発生した役割で、私はそうした。


多分、会社(IT系)の「営業さんのアシスタント」という役割に
必然性を見出せない。助けたいと思わない。





人はできることをやればいい。
けれど、英文事務をやるより、
レストランで皿洗いしていた方が面白い。


食材、野菜や魚、のそばにいたり、
オーブンを扱ったり、
包丁の切る音を聞きながら包丁を操ったり、
しているほうが、
虚業みたいなコンピュータワークしているより、
楽しい。


今日は、初めて会ったバレエの先生にかなり注意され、
皮肉めいたことも言われたので、
少し落ち込んだ。
それでもバレエが好き。
ダンスが好き。
何を言われたって関係ない。
私自身が踊ることが好きだから。
私自身が踊っている。
やっと踊れている。
この時間が好き。この動作が好き。この雰囲気が好き。ピアノの音が好き。
あー、語彙が足りない。
生きててよかった。
やっと愛する人に出会えた瞬間みたいに、
至福に満ちている。


  ☆ ☆ ☆


夜の駅で、カラフルな車椅子を漕ぐ人を見かけた。
車輪の中が、赤や黄のプラスチックでカラフルだった。
そうだ。
足の不自由な人だって、車椅子もおしゃれしたい。
第一、見る側も楽しい。自動車のボディペイントのように。


おしゃれすることが
社会的優位を示す威圧的な力に益々なっている、
今日のdeveloped countriesの社会構造は、ある意味危険だ。


その点はさて置き、
無味乾燥な道具であった車椅子が、
個人的な意義を帯びるのは好ましい。


ちょうどお気に入りのぬいぐるみのように。
がらくたになっても(がらくたであっても)
大切にされる存在。
そのようなポジションは、頼もしい。