コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

バレエの「上達」とは――強者の意識について――

ユニークフェイス(顔にあざを持った)の人に対して、プロのメークアップアーティストが綺麗に化粧を施す。ユニークフェイスの人は戸惑う。「綺麗に」してほしいのではなく、「普通」になりたいだけなのに。その微妙な差異をメークアップアーティストはわからない。『「見た目」依存の時代』の著者でNPO「ユニークフェイス」代表の石井政之さんは言う。
彼はアーティストの「綺麗にしてあげる」という意識を感じる。「綺麗にしてあげるんだから、これ以上文句はないでしょう」。
だから、ユニークフェイスを持つ人が、「普通にしてほしい」と"それ以上"の注文を出したとき、メークアップアーティストは理解できなかったそうだ。自分の持つ「美」の感性を疑ったことがなかったから?(自分のメイクアップの技術を疑ったことはあるだろうけれど。) 多分そのアーティストは、美しいことは良いことだ、という純粋な美意識の持ち主だったのかもしれない。







バレエ団のプリマバレリーナによるバレエクラスを受ける。わからないところを「教えてあげる」とおっしゃる。指導に熱心なのは嬉しい。けれど何かがひっかかる。


私は英語を教えることに気がすすまない。私は教えるほどのことを持っていないし、「先生」と呼ばれるほど偉くないと思うからだ。文法的なことはかなりどうでもよくて、実務上伝わればそれでいいと思う(実際はそこまで乱暴ではなく表現に気を遣うし面白い言い回しや美しい表現も好きだけれど、文法的な精確さや文学的な美文を追求する姿勢に対して言語学者や文学者ほどには熱心になれない)。だから、英語教師より、英語の専門職より、英語を頻繁に使う機会のある営業などがやりたい。


ダンサーが人を感動させるのに、技術はあったほうがいいけれど、技術がなくても人の心を打つことができる。身体障害を持った若い男性が、楽しそうに身をよじって踊る。場内が涙でしっとりする。






上手いダンサーと、いいダンサー。


コンテンポラリーダンスクラスが好きなのは、上達が一義的に定義できないからだと思う。
身体で空気を感じる、重力を感じる、空気の重さや空間の広がりを感じる、指がいつもより伸び、腰が安定した。
ジュッテが上手くできるより、立っているだけで何かを伝えられる表現者がいい。


別のバレエクラスでは、先生に「Be a swan」と言われる。「白鳥」になりたいと思ったことのない私は苦笑する。
もちろん、マイヤ・プリセツカヤの『瀕死の白鳥』には涙が抑えられなかった。美しいものは、美しい。美しいものは、無条件で人の心を捉える。
美の表現者であるバレリーナは、世界のあらゆる美しいものに敏感でいたほうがいいのだろう。
たぶん、表現者であるには、壁を作らないほうがいい。自分は「白鳥」ではないから、と白鳥を演ずることを拒否するよりも、やりたくないいろんな役柄を本気でやってみて、自分の幅を広げるべきなのだろう。







あるプロフェッショナルダンサーが、「上達するとは、自分が変わることだ」と言った。
的を得た。
一秒前から一秒後、昨日より今日、今から次の瞬間へ。
いつも発見の連続である。
たとえ何もないように見えるものにも「発見は隠れている」と言う。
もちろん、発見しようと意識しなくても、見つかるときは見つかるし、気づくときは気づくのである。
けれど、毎日意識して自分の修正すべき点に気づき、良くしていくことが、多分プロたるダンサーの務めなのだろう。
私の意識にも似たものがある。常に自分や他人やパン屋やビジネス慣習や社会の仕組み等々の改善点を考える。もう少しこうすれば、と思ってしまう。
「自分の悪い点を常に意識して直そうと思っている」と述べる老教授に対して、「そんな後ろ向きに生きてないで、前向きに、いい点を伸ばせばいいじゃん」と思ったことがある。けれど、多分、私は、いつも改善点を考えるタイプなのである。


「ないものを望むのではなく、あるものを精いっぱい生かすことが必要だと思った」
「(私の性格は)強くないからこそ、強くない面をどう持っていけば実力を一番出せるかを考えた。自分の弱い面を把握することが、少しずつ自分を強くしていくと考えた。人は皆、弱い面を認められなかったりする。わかってはいるけれど、避けて通りたいと思う。けれど、それをよく知ることは、自分の良い面を知ることより大切だと考えた。」


荒川静香 2006年5月8日 Y新聞単独インタビュー






コンテンポラリーダンスのクラスでは、私は「もう少しこうすれば」とあまり考えない。踊るとは、私にとって、自分を解放することである。
多分いろいろな思いでコンテのクラスを受けている人がいると思うけれど。
私にとって、ダンスは、魂の洗濯である。
上達を考えて汲々としたくない。そんなのは仕事で十分である。だから、クラシックバレエのクラスでは窮屈に感じることがある。(モダンバレエは平気。)


多分、いいバレリーナになりたいとは思ってない。パが綺麗にできるようになれば、とは思っていない。荒っぽくても、無様でもいいから、真実が伝えられれば、それでいい。*1








美しく真実が伝えられれば、それに越したことはないのだろうか。









美を追求するのは、きりがないことだ。
『「見た目」依存の時代』を読んで、そう思った。


ビューティーコロシアム」という"醜い"女性が整形手術やスタイリストの助けを得て美人に生まれ変わるというテレビ番組がある。ブスだから馬鹿にされいじめられてきた、と泣きじゃくる女の子に対して、和田アキコさんが「今までそれを直そうといろいろ努力してきたのか?」と問う。女の子がYesと言えば場内は納得し、Noと言えば努力してないなら馬鹿にされるのもしょうがないでしょう、と半ば強い姿勢で言ってかかる。
石井さんは努力至上主義に疑問を呈する。努力して美しくなれば、それでいいのか。元から努力しようのない者、例えば身体障害者や、老いをどう扱うのか。老いて皺が増えたり、一日中仕事して疲れた顔になるのは、人間にとって自然なことだ、と。 
私も、モデルをする人が、あなたも美を追求すればいいのよ、と応援してくれるのは結構だが(美の追求は度を過ぎなければ楽しい)、問題はそれだけでは終わらないと感じる。女の子が皆モデルになるために生まれたわけではないのに、今日ほどモデルに憧れる女性が多い時代は人類史上皆無だろう。日本における摂食障害は増える一方だ。


美しいことは、良いことだ。
というより、美しい自然を見て素直に美しいと感じられる感性は大切であると思う。
けれど、美しくないことに対して、それでは、あなたはどう思うの? 見るの? 扱うの? 
 
 
 

*1:それに私にとってはダンスは趣味なのである。ダンスが上手くなりたいとは思わないかもしれない。もっと身体を解放したい、表現力をつけたいとは思う。文章はもっと上手くなりたい。英語での表現力ももっと伸ばしたい。そういうことである。