コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

カウンセラー道

本屋で、カウンセラーになるための本を2冊立ち読みした。
あと、5年前に買った『プロカウンセラーの聞く技術』を読み直している。
プロカウンセラーの聞く技術


カウンセラーらの座談会で、一人が、
「最近は、若い人がけっこう人を助けたいと言って私のところに来るんですよ」
と前置きして、でも、カウンセラーであるためには、
「自分の無力さをとことん味わうことが大切です」
と言っていた。
安易に人を助けられると思うのは危ない、ということか。*1



世界のわからなさ、相手の話のわからなさとそのままいることができれば、いいのかもしれない。


わかろうとしなければ、わからない相手といることもさほど苦痛ではなくなるのだろうか。


そうすれば、自分が「わかる」と感じる相手とだけつきあうこともなくなる。
もっと開けた世界が待っている。


(ッていうか、
そんな理屈っぽいこと考えなくても、今の自分は、わけわからんお客さんや
自分とはまったく趣味の異なる同僚と仲良くやっているぞ。)


そんでも、ひきこもりの子たちと向き合えないのはどうなのかなあ?
ひきこもりについての作品を作るという形だけでなく、
直接、ただだまって隣にいることができぬものか。


カウンセラーの相手となる人たちは、深刻な悩みを抱えた人が多い。
そのような人たちと毎日顔をつきあわせる…………。わたしには、 重すぎるなあ。


しかも、カウンセラーは生涯自分の人格と向き合ってそれを磨き続けなければならない。
高度な心理学の専門知識も勉強しつづける必要がある。
やっぱりカウンセラーになるのは無理かなあ、と思った。

*1:でも単に、この人の人生にとっては無力さが大事だっただけかもしれないとも思ったよ。