コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

相手あってのこと――自分の限界を知る


振付。今、デュオでやっているんですけど、一人のほうが作りやすいかなあ。
デュオは相手あってのことだから。
エゴのぶつかり合いというか、やはり目標が似てないとつらいところがある。
創作の場面でぶつかり合いはあたりまえなので、それはいい。
むしろぶつかり合えないところが問題だけど、とほほ。
まあこれはいつもの人間関係と同じように、人間関係のことなので、おいおいやっていくですよ。
それもまた面白い。


         ☆  ☆  ☆


相手あってのこと、というのは、自分のことをある程度よく知っていること――限界も含めて――が必要だと思う。創作活動は限界に挑戦するので例外だろうけれども。


カウンセラーというお仕事は典型的にそうだけれど、自分のことをよく知って、限界を知っておかないと、自分の期待や夢などを相手に押しつけてしまうから、相手のことをまっさらな目で捉えることができにくくなる。


作家の左江衆一さんが言ってらしたと思うが、
100人がNo.1を目指して(もちろんだいたいの人が一番になりたいものだ)も、
99人はNo.1になれない。それが多くの人の人生である。と。
それが事実だなあ。そういう言葉に私は支えられている気がする。


トップになる人は、もちろんそこに至るまでに凄まじい努力や労力を払っているわけで、別に超人ではないのだろうと思う。ただ、それが好きで、それしかなくてやってきた、という人が多いようだ。


でも、たとえば、今両親が突然事故に遭って亡くなってしまったら、自分で全部学費を払わなければいけない。生活保護や保険金はもらえるし、一部の学費は免除してもらえるかもしれないけれど。どんなにフィギュアスケートが好きでもよっぽどの才能が認められない限り、趣味としてすらやる資金はない。これから3年間何か仕事をして稼ぐにしても、若いときの貴重な時間をスケートに費やせない。ブランクが大きくなっていく。自分の中の何かを、すっぽりと失う。
たとえば、イギリス留学中に、もうすぐで博士号取得だ、というときに、日本の母が倒れて介護しに帰らなければいけない。理系で進展の早い世界だったら、もう取り返しはつかない。
自分の人生、何なんだろう。
けれど……。その状況を受け入れるしかないのではないか。
不可抗力を。限界を。運命を。神のご意思を。  呼び名は何でもいいけれど。
そのようなことを想像したら、自分の今ある環境がいかに恵まれているか、実感できる。趣味としてでも、踊れるんだから、いいじゃん!


私も何かすごいことをしたいという野心だけはあるんですけど、下を見て歩いていくというか。天の神さまや空の青さを仰ぎ見て美しさに感動しつつ、さわやかな美しい緑に囲まれていることに幸せを感じつつ、けれども、地面のアリさんや路地に生えている雑草を観察しいろんな発見をして、歩ける足があることに感謝しながら、地道に歩いていきたい。


トップバレリーナのある人は著書で、「一人一能」を信じると言っていた。
けれど、全身不随の人の何の能力を信じるのだろうか。
結局、その人が生まれてずっとそばに生きていてくれた。たまたまそばに生きていてくれた。
何気ない喜びや悲しみや、何ということはない時間を共有してくれた。
そんなことではないのか。
たまたま、同じ時間の同じ空間を共有し、共に生きてきた。
それだけでいいではないか。才能なんて、いいではないか。


カウンセラーや、福祉のお仕事をする何人かの友人のように、もっと人びとを(そして自分を)、存在そのままに、深く受け入れたい。


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