コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

水色の絵の具セットが欲しい

平凡とは素晴らしいことです
 思い通りにならない〜アル中の抱える問題はたいてい自家製だという話(心の家路)

無理を押し通そうとするのでもなく、やけになって投げ出すのでもなく、
「身の丈をわきまえながらも、向上心を忘れず、自分の特性を最大限に生かそうとすること」に、
生きがいや幸せがあり、またそういう態度こそが他人から評価されるのです。


どうにもならないことは、受け入れる勇気をもつこと。
どうにかなることは、懸命に努力すること。
そしてもっとも重要なことは、そのふたつを見分ける知恵をもつことです。


 たかたまさひろ


自分の思いにどれだけ忠実だといいのだろうか?
「ピンクの絵の具セット(女子用)」ではなく、
「水色の絵の具セット(男子用)」
を持ちたいという願いは、保持し続けるべきか?
それとも、あきらめるべきか?


バレエのオープンクラスで、
たまたま短期で来ている講師に、
「髪が顔にかかってるよ(だから、しばれ)」と言われようと、
「この(長い)パンツだと足が見えないだろう」といわれようと、
私は髪は自分の思うままに流しておきたいし、
好きなパンツを履いて踊りたい。
第一、今まで通ったどのモダンバレエやモダンダンスのクラスでも、
ずっとそれでOKだった。
今までOKだったものが、
ここでなぜOKでないのだ。
専用のクラシックバレエのクラスでもないのに。
コンテンポラリーダンスクラスのあるスタジオだ。
そして、このクラスにもたまにバレエシューズを履かずに、
クラシックバレエでない格好をした人も参加している。
ただ、最近このクラスでは、
バレエシューズを履かない人は、
私を含め、希少な価値を持った
存在となりつつある。


郷に入れば郷に従え。
人間が生きていく原則だ。
けれど、ダンスパンツをクラスの皆と異なるものを
履いたって、殺されるわけではない。
それは確かなことだ。
もう怖れない。人と違うことを。


なぜなら、6歳のとき、
担任の教師の言うことを聞いて、
「ピンクの絵の具セット(女子用)」を購入したことを、
二十年間以上後悔しているからだ。


 「先生、絵の具セット、(水色のが買いたいんですけど、)
  『水色は男子』だけなんですか。
  ピンクのを買わなきゃいけないんですか」
 「うーん、女子はピンクを買うことになっているのよ」




ただ、水色が着たいだけ。
他人に危害を加えない範囲で、
好きな色や形の服を着る。
それは人間として許される権利だと思う。
(人に不快感を与えるならば、
 そのことにやや配慮する必要は認める。)


女だから、ピンク、と決めてくれるな。


私は、私だ。





  ☆  ☆  ☆


一番素敵なのは、
徐々に人に影響を与えて、
場のスタンダードを変えてしまうこと。
たとえ目上の人に注意を受けようと。
実行し続けたもの勝ち
(この言葉はなるべく使いたくないので、
「有効性を持つ」とでもいおうか)なのだ。
前の職場でも、
その前の職場でも、
私の着崩したファッションが
徐々に受け入れられていった。
後輩らに真似られ、流行った。


(とはいえ、人は相互に影響を与え合っているので、
 私一人が大したことをやってるわけではない。)



   ☆  ☆  ☆



私の基本人格は、とても気弱で優しく従順だ。
人(状況・環境)の言うことに逆らえない。
もし親に結婚相手のことを反対されたら、
その相手とは別れると思う。


なぜか、環境は絶対値だと思い込んでいる。
環境は変数なのに。


「環境は、変えられる」


多くの場合、無力感と虚無感を感じている。
私は、この言葉を、一生、何億回と、
自分に向かって唱える必要がある。