コンテンポラリーダンスと英語とねことパンの日々
    

空即是色とストーリーテリング

空即是色とは何か。


灰色の空が色(カラー)になる。色*1を体験するのが人生という場。


すべては流れゆく。空しい。


空 = 瞑想中の時空で体験する(はずの)、説明不能な時空を超えた何か。


空 = 空=本質。であるならば、人生は虚しい。(ニヒリズム


空 = 無。無においては、全てが一体である。→ 安心感





物事の本質は、空だと理解した。


空 = 無


現実の人生において、無= +/−(二元性)における、有に対しての無(ネガティブ)


魂において、意味は意味を持たない
(本来は無の世界に、意味をつけるのは人間)


でもさー、ダメだ。


そもそも、現実(リアル)では、プラスの感情を抱けないと、
虚無主義に陥るしかないと思う。
無神論者で、非常にstruggleしかない。


(自分から無神論者だという人で、幸福そうな人がいない。
そもそも無神論者は幸福に価値を置いてない。リアルであること、に意味を見出してる。
ハッピーな人で、もし無神論な人がいても、自分から神はいないことをわざわざ言わない。他に、ほとんど神頼みに近い強い信念があって、彼を支えてるから。)


親が新新宗教好きだからかもしれないけど、
キング牧師のような信念のある人生のほうが力強く見える。感じる。


だから、あたしが現実世界を生きるうえでは、
空に安心感を抱けないといけない。


目が見えず、耳の聞こえない、「宇宙の果てに住んでいるようだ」という福島智東大教授(障害論)が、対談で、「意味を見ようと思った」(だったかな?)と述べていて。
ああやっぱり、
「意味はないけど、意味はあるとあえて思おう、と思う(決心する・選択する)」
という段階を踏まないと、今の彼はなかったんだな、と。
妙に納得した。

「0」 : 意味はない
「0→1」 : 意味はあると思おう(ヴィクトール・E・フランクル
「0.5」 : と選択する ←ココ重要! (他の誰でもない自分自身の選択として、毎秒、選択し続ける)
「1」 : (意味はあると思った上に成り立つ)『世界』


(1にいるときには、上記の0から1へのトランジットについて、
わざわざ書こうとも思わない、考えない、という『世界』。)


世界はきわめてシステマティックに動いている(因果応報)にしても、
やっぱり、
わたしがわたしらしく生きるには、
意味が必要、ストーリーが必要なのだ。


わたしは、強い人生への意味づけがあって、
初めて強く後押しされて、人生へと踏み出していける。


そうではなければ、
足元は、常にぐにゃぐにゃの、
砂上の楼閣。


0の上に1を構築しようというのは、
常に多大な危険をはらんでいて、
私は、持って生まれた性格上、そういったディレンマが
どうやら非常に好きらしい。


ディレンマに目が行ってしまう。
そうであるならば、外にディレンマを見よう。
創作することによって、内的なコンフリクトが、
外化され、内が癒されたように。
たとえ、毎日、怖い映画を見ようと、そのほうがいい。
内に怖いものを見つけすぎて、食に興味を失うようでは、生活に困る。


わたしが、わたしであることを生き始めたのは、
自分の物語(ストーリー)を語り始めたときからで。
自分のダンスを踊り始めたから。


  ☆  ☆


食欲がなくなった、というと、
どうして?
と友達にきかれるけど、
どうしてなんだろう。忙しすぎると、無気力になる。


多角度から分析し熟慮し対話した末、


親のせいではない。


というのははっきりしてる。


病気のせい。かもしれないけど。
もう病気のせいにしても。しょうがない。
現実に適応しなきゃ、生き延びていけない。
生き延びるためには、
10年間現代西洋医学では治せなかった(医学書には「難治」と書いてある)のだから、
自分で自分が生きるために、手作りで、自分用の処方箋を書く。


でも、もう、生き延びることさえ、どうでもいい。
そう思ってしまう、最後には。


  ☆


本能が薄いな。(生まれたときからずっと。)


本能を高めるのは、やっぱりダンスだ


と思う。


  ☆


体質改善にさらに励もう。
一緒に励まし合える友人たちを募集中。


玄米菜食、7年ぶりに再開します。

*1:色 = representation。